2014年04月

鳩のなかの猫

 朝はいつものようにベランダにて朝食。食後はそのまま雑誌を読んだりしながら雨の降るさまをながめたりしてゆったりモードを満喫。夕方、AYが仕事帰りに来訪して、2時間ほどおしゃべりをしてすごしていった。録画HDDのなかからアガサクリスティのフレンチミステリー、「鳩のなかの猫」をみた。ラロジェール警視とランピオン刑事の軽妙なやりとりのなか事件がだんだんと解決されていく。原作ではポアロものとして書かれたものだが、ドラマではフレンチ風な演出がややもするとホラーになりかねない内容をラストまで軽快に引っぱっていく。

無題 そのため、2時間はあっという間にすぎてしまい軽やかな気分に満たされる。夕食はソーメンをゆでてベランダの大葉を刻んで薬味として大量につかった。大丈夫だろうと二人前をゆでたが、途中でお腹いっぱいになって、それでも昭和世代の美徳というか、哀しさというか、もったいない精神がはたらいてむりやり完食してしまう。おかげでこうしてPCを叩いている現在もお腹がもたれて苦しい、完全な食べ過ぎ状態だ。麺をゆでる前は空腹なのでつい二人分もゆでてしまって、目が欲しがるんでついね。


美しい村

 或る小高いおかの頂きにあるお天狗てんぐ様のところまで登ってみようと思って、私は、去年の落葉ですっかり地肌じはだの見えないほど埋まっているやや急な山径やまみちをガサガサと音させながら上って行ったが、だんだんその落葉の量が増して行って、私のくつがその中に気味悪いくらい深く入るようになり、くさった葉の湿しめがその靴のなかまでみ込んで来そうに思えたので、私はよっぽどそのまま引っ返そうかと思った時分になって、雑木林ぞうきばやしの中からその見棄みすてられた家が不意に私の目の前に立ち現れたのであった。そうしてその窓がすっかりくぎづけになっていて、その庭なんぞもすっかりれ果て、いまにもこわれそうな木戸が半ば開かれたままになっているのを認めると、私は子供らしい好奇心こうきしんで一ぱいになりながらその庭の中へずかずかと這入はいって行った。「美しい村」(堀辰雄)

51iUMyzKewL__SX230_ 気候がよくなってきたせいか、朝食後のベランダにでて飲む紅茶が美味しい。今朝はピーナックリームをこんもりとぬったトーストを皿にのせて、紅茶といっしょにベランダに運び込んであじわった。そうしてぼんやりとした時間をすごした。それから数日前にホームセンターで買っておいた白のペンキ缶をあけて、刷毛をなかに突っ込んでかき混ぜた。クーラーの室外機のうえにおいてある、平板を今日こそペイントしようと思いたったからだ。充分注意をしたにもかかわらず、服のあちこちに白いペンキが付いてしまった。ニッぺホームペイント(水性塗料)なのでペンキのついたところはすぐに水で洗えば大丈夫だった。平板を乾かす間、そのままベランダで文庫本、「美しい村」に集中していたら、あっという間に読了してしまった。

 〈まだ夏早い軽井沢の高原の村へやって来た傷心の若い小説家の「私」が、一人そこに滞在しながら牧歌的な物語を書こうと、村で出会ったことをそれからそれへと書いてゆくというフーガ形式の物語。高原の風物や野薔薇や村人を題材に構想を描いていた「私」の目の前に、転調のように突然と現れた向日葵の少女への愛情を育むうちに、生に対する興味を取り戻して悲劇から抜け出してゆく過程が、バッハの遁走曲のような音楽的構成と、プルーストの影響により結晶させた奇跡的な文体で描かれている〉とHPには紹介されているが、ベランダにでて初夏の陽光のなかで小説に夢中になっていると、文中に登場する外人の建てた古いバンガロオのヴェランダにたたずむ老嬢のような気持ちになってくる。おもわずページから目をあげて、エッ、ここは軽井沢?と見回したりして小説世界に入り込んでたのしんだ。

 きっと連休真っただ中のいまごろの旧軽銀座通りあたりは、ものすごい数の観光客でごった返しているにちがいない。ジョン・レノンが自転車に乗って毎日のようにフランスパンを買いに来たフランス・ベーカリーや向い側のブランジェ浅野屋。そして茜珈琲店、ミカドコーヒー、そうそうジャムの御三家、「沢屋」、「中山のジャム」、「小林ジャム」など行列が目に浮かぶようだ。もちろん、そこにたどり着くまでの道路の渋滞と途中で入るサービスエリアの混雑も同様だ。以前だったらそんなことなどモノともせずに家族をのせて一路観光地に向けて車を走らせただろうが、いまとなっては想像するだに恐ろしい。こうして家のベランダで腰かけて、陽光に包まれながら小説の行間から立ちのぼる古い軽井沢の面影と美しい少女との出会いに心躍らせているほうが、いまの私には間違いなくお似合いの姿だと思う。

ナポリタン

 昨夜はかってないほど排尿時に膀胱のあたりで激痛を感じ、しかもかなりの頻尿でおちおちゆっくりと寝てもいられない始末だった。これはかなわん、と起き掛けにクリニックに行こうとおもい、シャワーを浴び朝食をすませた。一昨日薬をもらいにいったばかりのクリニックで症状を医者につげ、膀胱に炎症を起こしているので、抗生物質でもなんでもいいので薬をくれとつげた。トスフロキサントシル酸塩錠なる薬を10日分もらう。説明書には細菌の感染を抑える薬とあったので、さっそく家にもどり飲んでみた。ここ二三日は好きなコーヒーも飲まないで注意していたのに、とおもったがあとは薬の効き目を信じるしかない。

 書架から「前立腺は切らずに治す!」(鈴木文夫)をとりだして開いた。「気をつけたい合併症」という個所に、〈通常、尿路は常にオシッコが勢いよく流れることで、尿路内の細菌を洗い流し、体内に侵入するのを防いでいますが、排尿障害が起き、オシッコがうまく出なくなると、尿道から侵入した細菌が尿道や膀胱の粘膜に取り付いて、尿道炎や膀胱炎を引き起こしてしまいます。そのため、オシッコをするときに痛みを感じたり(排尿痛)、下腹部に不快感を感じて「頻尿」になったり、ときには血尿が出たり、高熱を発したりするのです〉と説明している。

 しかも、〈さらに、その細菌が肝臓にまで入り込んで「腎孟腎炎」を引き起こし、高熱、背中の痛み、吐き気などの症状を起こすことがありますし、前立腺に入り込んだ細菌のせいで「急性前立腺炎」になってしまうこともあります〉とあったのでチョイびびる。たしかに私自身のここは長年の酷使にも耐え、数多の罵倒、嘲笑、憐憫をものともせずよくぞここまで永らえてきている。なので労わりたい気持ちでいっぱいなのだ。ご同輩、共感いただけるでしょうか、もし同じような症状をお持ちの方はぜひ検尿をおすすめします。

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 朝食にはMからもらった館山土産のナカパンのピーナッツクリームを、焼きたてのさくさくトーストにこんもりとぬって食べた。日当たりのいいベランダにでて、プランターで育っている大葉、ベビーリーフ、パセリを摘んだ。昼は摘んだベビーリーフとパセリ、そしてパプリカとレタスでサラダをつくった。パスタをゆでて、塩、こしょう、トマトケチャップと隠し味にウスターソースをくわえて喫茶店風のスパゲッティナポリタンをつくった。玉ねぎを炒めてパプリカ、椎茸を千切りにして一緒にくわえたが、でき上がりの味はなるほどむかし食べた記憶のするノスタルジックなナポリタンだった。

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ゲインズブールと女たち

無題 映画、「ゲインズブールと女たち」(2010年フランス)を観た。HPにはフランスの漫画家であるジョアン・スファールの長編映画監督デビュー作で、自身のグラフィックノベルを原作としているとあって、〈ジェーン・バーキン役のルーシー・ゴードンは撮影後に自殺し、本作が遺作となった。物語は1991年、62歳で急逝した芸術家、セルジュ・ゲンスブールについて。酒とタバコ、音楽と自由をこよなく愛し、作詞家・作曲家・歌手・映画監督・俳優・画家とマルチな才能をもちながらも、反体制的で強烈な作風で常にセンセーションを巻き起こし、今なお世界中のアーティストたちに影響を与え続ける偉大なカリスマ。そして、フランス・ギャル、ブリジット・バルドー、ジュリエット・グレコ、ジェーン・バーキン、ヴァネッサ・パラディなどの才能を開花させ、ハンサムとは言えない風貌ながらも独特のダンディズムで数々の女性たちに愛されたフランスきっての伊達男。その破天荒でセンセーショナルな生涯、そして今なお色褪せることのない伝説が、数々のシャンソン、ジャズ、フレンチ・ポップに彩られスクリーンに甦る〉と紹介されていた。

 上の写真はバルドーにあの歌詞のリアルな性表現ゆえに放送禁止になった「ジュ・テーム・モワ、ノン・プリュ」を披露しているシーンで、レコーディングにいたるもバルドーの夫の猛反対にあい(W不倫だしね)発売中止になった。ドキュメント〈ブリジット・バルドー、~フランスのアイコン~〉では映画監督のロジェ・バディムと1952年に18歳で結婚、その後「素直な悪女」で注目をあつめ、世界的な大女優に変貌をとげるプロセスが描かれていて興味深い。日本でバルドーの映画が公開されるとそのセンセーショナルな扱いの効果もあって大ヒット。当時中学生だった私もほとんどリアルタイムで観ているが、バルドーにはあまり関心をいだかなかったのは幼かったせいもあるが、それよりももっと身近な存在のほうに、例えば同級生の女子などに夢中だったという理由もあるかもしれない。それでも「素敵なおバカさん」で共演した、アンソニー・パーキンスとの絡みのシーンなどいまでもしっかりと脳裏にのこっている。思春期の中学生にとっては結構刺激的だったということだよね。

無題 こちらのシーンはジェーンバーキンと吹きこんだ同曲の試聴のために出版元を訪れたときのもの。バルド-がだめならジェーンがいるさというわけなんだろうが、目論見はみごとにあたり1969年、ヨーロッパ全土で大ヒットした。映画の後半、1979年にセルジュがフランスの国家をレゲエに編曲したさいの新聞書評をナレーションが読みあげる。"まさしくフランス国家のパロディ ゲインズブールはヒット狙いだった 彼は鏡を見つめ― 自分の顔を映した社会を夢見る 目ヤニだらけの目 無精ヒゲ しまりのない口 ゲインズブールを見るたびに私はエコロジストになる 彼が生み出す公害と戦うエコロジストだ 彼はまさに公害車 薄汚い異端児のトラウマは反ユダヤ主義だ 残念ながら―反ユダヤ主義のアジテーターがいる それを煽るのはゲインズブール自身だ すべては転がり込むギャラのためだ"

 いかにもフランスらしい辛辣な新聞の批評だが、しかし多くの美女と関係をもった女ったらしにたいする嫉妬心も感じつつ、同感と頷いてしまう。ゲインズブールはいう、「ジェーンが去ったのは俺がバカをやり過ぎたせいだ」。パリのモンパルナス墓地にゲインズブールの墓がある。ちかくにはサルトルとボーボワールの墓が仲よくならんでいるし、モーパッサンもボードレールもマン・レイもデュラスの墓もここにある。私が訪ねたときは、1979年9月に亡くなった女優のジーン・セバーグの墓石には花束が置かれていた。Jean Sebergs とあったのですぐに気がついたが、ゴダールの映画「勝手にしやがれ」(1959年)でジャン=ポール・ベルモンドと共演したさいのセシルカットの髪型が日本でも大流行したのだ。なつかしいね。




パリは好きだけど・・・

 鎌取駅前のクリニックへいつもの薬をもらいにいく。症状は改善しているとはいいがたい。ここ数日は排尿のさいに膀胱ちかくが沁みる感じでストレスを感じてしまう。医者にその旨つげると生検後、半年たっているのでPSA(血液検査)をしましょうといいその場で採血。投薬は同じものだったが、結果は次回に訊くことにするつもりだ。クリニックをでると、初夏を思わせる明るい日差しに昼は冷やし中華そばが食べたいとおもった。ちかくのラーメン屋へ行こうとおもったが、AEONの前だったので店内で食材を買って家にもどってつくった。

DSC07538 BGMにエロール・ガーナーのCD、「PARIS IMPRSSIONS」をトレーにのせてリモコンをONすると、ハッピーピアニストと呼称されたエロール・ガーナーの軽快なピアノが鳴りはじめた。でき上がった冷やし中華を頬張りながら、ライナーノーツを読んでたらこんな部分に出くわした。〈しかし、よく聴いて戴きたい。ただハッピーなだけであろうか。唸り声を発しながら力強いタッチで、ときにはビハインド・ザ・ビートに、もつれるような右手のラインが流れる時、ブルージーで涙が出そうになる瞬間を、聴きとって欲しい。カーニバルが華麗で喧噪であればあるほど、何処か物悲しいように、ガーナーのパッピースタイルの陰には、陽気であればあるほど、深い人生の悲哀が漂っている。〉とあったので耳を澄ませて聴きいった。そしたら6曲目の「FAREWELL TO PARIS 」あたりで納得した。

images パリの冬、凍てつく石畳の小径に漂うアンニュイとでも表現すればいいのか、気だるい物悲しさを感じて脳裡にそんな光景が浮かんだ。2001年の暮から翌年にかけて私はパリにいた。シャルル・ド・ゴール空港からオペラ座までのバスに乗ったはいいけど、降りたところでタクシーの姿なんて見当たらない。寒い夜だった。しかたがないので地下鉄に乗ろうとメトロの入り口を探して周辺をうろうろと荷物抱えて一人ぽっちで移動をした。お分かりになるだろうか、石畳を転がるスーツケースのキャスターがごろごろと派手な音を響かせて見知らぬ薄暗い街中をうろつく気分を。東京のようにいたるところにある自販機の明りや、ショウウインドウの煌々とした照明などいっさいないパリの夜。ネットで予約をしておいた安ホテルの場所は地図もないので皆目わからない。地図があったとしてもわからなかっただろうが、とにかく仕事を終え、着のみ着のまま13時間ちかくを飛行機のなかですごしてきたのではやくあったかい風呂に入りたい。その一心でメトロとタクシーを必死で探した。なにが花のパリだよ~、なにがパリのエスプリだよ~としょぼくれてきたころにタクシーがどうにかつかまった。

images33JXQ7MR CDをチェンジした。「the best of Jane Birkin」だ。寒々としたパリの思い出を払拭しよう、粋でシック、コケティッシュなパリのミューズ、ジェーン・バーキンのベストだ。いや、永遠のミューズだったのは2番目の夫セルジュ・ゲインズブールにとってのはずだ。ゲインズブールといえば思いだすのは私などは煙草のジタンか、特徴のあるあの目つきくらいか。ゲインズブールの言葉に、「最後の女か最後の煙草か、どちらかを選ばなくてはならないとしたら最後の煙草を選ぶ。捨てるときに楽だから」という名言?があるのだが、それくらいジタンの印象がつよい。フランスの煙草の二大ブランド、ジタンもゴロワーズも煙草をやめる前に吸ったことはあるのだが、どちらも辛くてファンになることはなかった。オルセー美術館の裏に彼らが住んだ家が残っている。大きな鉄製の扉にはファンの書き込みだろうか、カラフルな落書きがいっぱいしてあったがさすがパリ、落書きすらもアートしていて素敵だった。カメラに収めたが、いまとなってはどこへいったやら探してみたが見つからなかった。

 いま、3曲目の「ジュ・テーム・モワ、ノン・プリュ」がかかっている。これ聴きながらマスターベーションをするといった知人がいたが、うーん納得するね。"スタジオにベッドを持ち込んだような"、その濃厚な愛の歌とともにセルジュとジェーンは伝説のカップルとなったのだ。録画HDDのなかに「ゲインズブールと女たち」があったのであとで見るつもりだ。連休始まりの一日目はこうして過ぎていく。


シエスタ

 四街道の顧客とアポイントがとれずに、要請があればでかける予定だったが、時間があいた。おりよくMから買い物に行きませんかとの誘い。アパートによって、がたつくテーブルのネジ留めを預かっていた専用のドライバーできちんと絞めた。買い物のさいちゅう、Mは暑い暑いとくり返していたが私にはちょうどいい温度で暑さなんて感じない。むしろちょっと肌寒く感じるほどだ。Tさん、暑くない?とくりかえし訊くのできっとこれからの人間とこれまでの人間との生物としての差がそう体感させるのだろうと応えた。

 あした天気もよさそうなのでMはAYと子どもたちといっしょに館山へ行ってくるという。Tさんいっしょに行く?と誘われたがパスする。行けば疲れる役回りに終始しそうで、億劫に感じたからだが、休みとなれば一時もじっとしていなかった過去の自分を考えると信じられない変化だ。午後3時過ぎ、無性に眠くなったのでソファで毛布をかけてシエスタ。いまや習慣になりつつあるが、テレビを見ていたら30分程度のシエスタの時間をとる学校や、会社も増えているという。そのほうが効率が上がるというのだが、そうかもしれない。短い時間でも寝ざめはスッキリとするので納得だ。


 午前中、稲毛の取引業者へでかける。住宅地のなかの小さな工場だが、へえこんなところにとおどろいた。初めての取引だったので、とりあえずお試しということで、一件だけの発注にした。ちかくの餃子の大将で昼をすませた。その足で千葉市中央図書館へたちより、1時間すごしてから元妻のマンションへいく。ここで、たわいのないおしゃべりを4時間ほどすごしてから、家に戻った。

 あさがたに夢をみたので、忘れないうちにメモをした。M社でのこと、長い出張から会社にもどってみると、そこはなぜかそのころの木更津支店だった。なかには別の会社なのに一時期いただけの事務員さんがいて、なにやら仕事している。夢なのでストーリーの整合性はあっていない。私といえば、バブルだったころそうだったようにテイラーメイドのスーツを着ている。留守中になにか変ったことはなかったかと事務員さんに訊ねた。とくにないとのことだったが、なにやらテーブルの上には大量のファックス用紙がどこからか届いている。見ると、あちこちの事務所の物件が不動産屋から送られてきているようだ。なかには出店のスケジュール表もあった。「なんだこれは」と訊ねると、事務員は申し訳なさそうにして私から目をそらしてしまう。

 そこへ、10泊11日の研修に行かせていた社員が帰ってきた。なにか知っているとおもい、訊いてみたがなにも知らないようで役に立たない。私は思いだした。先日北海道の帯広に転勤になったむかしの上司が私を訪ねてきて、しばらく雑談を交わしたことを。むかしはこの人の部下だった私とコンビで管轄の業績を伸ばしてきたが、成果が上がったところで私は自身の管轄する部署を担当するように組織を別にさせられた。M社はこうして業績をあげている部署を分化して全国制覇をなしとげ年商600億ならんとする企業に成長していた。元上司は理由はわからないがやがて更迭の身となり帯広の小さな営業所のみの担当となってしまったが、現在は千葉にもどり、2,3人の部下とともに現場仕事に励んでいるらしかった。

 ははーん、なにやら人数をあつめて私の管轄内に出店を計画しているのだと気がついた。M社の敵はM社という、社内同士を競わせて業績アップを図るのはそのころ多くの企業のとっていたやりかたでもあった。なるほど、先日の突然の来社はかって自分の部下だった私に対して、彼なりに仁義を切ったということだったのかと納得がいった。これはめんどうなことになったぞと、すぐに対策をあれこれ考えた。夕方6時になって外回りの営業マンたちが次々と帰社してきた。そうだ、今夜は徹底的にミーティングをして敵を迎えうつ為の気合をいれるのだ、なかば闘争心と自信に充ち充ちた気分で決意をした。と、ここで夢から目が覚めた。

 なんでこんな夢を見たのか理由はわからないが、あまりにも現在の生活に関係のない事柄にもかかわらず、むかしを彷彿とさせるリアルな場面を思い返しながらあのころのシビアな日々を振り返ってみた。自由だが、身も心も老化し、弛緩した現在と、あのころの息詰まるような緊張感に満ちた日々をくらべてみてもせんないことだが、同時にふたつの人生を生きるわけにもいかない。いまを精いっぱいたのしみながら静かに日々を過ごすこと、それにつきるよねと私は起きぬけの頭のなかで独りごちした。


フィールドノート

DSC07536 いつ行くあてもない北海道旅行のデータ収集をとりあえずしておこうと考えた。あちこちに拡散した情報の整理にはKJ法があとあと便利だろうと考えてデスクのなかにたしかあったはずとKJ法カードを探していたら、なつかしいノートがでてきた。14、5×10cmのハンディタイプだが、最初のページに私の字で、FIELD NOTE と書いてある。1ぺージ目に、〈青春と老年と夜 Walt Whitman / Youth,Day,Old Age and Night 1881〉とあって、こう続く。〈おおどかで、発刺たる愛すべき「青春」―典雅と、力と、魅力にみちた青春よ。君は、君の後から、おなじような典雅さと、力と、魅力をもつ「老年」の来ることを知っているか。満開の壮麗なる白昼―巨大な太陽と、活動と、大望と哄笑の白昼。「夜」はすぐその後に、幾百万の恒星と、そして睡眠と、さらに元気を取り戻す夜の闇を伴って続いてくる。〉なんと、ホイットマンの詩ではないか。自分で書いたことすら忘れているのがなさけないが、次のページは1992年6月2日の北海道の北大植物園へいったときのことを書いている。自らフィールドノートと表題にしたように主に野外活動の記録や観察ノートとして書き込んでいたことを思いだした。

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 文字が細かいので読みつらいのだが、どんなことを22年前の自分が書いていたのか書き写してみることにする。〈午前中、ホテルより歩いて北大の植物園に入る。都市のなかに原生林を遺している貴重な植物層を見る。ライラックが薄いピンクの花をたくさんつけていい匂いをさせている。植物園を入って右側の建物の前にあるライラックの木の前で写真を撮る。ほかの入園者たちも写真を撮っている。歳のころは50歳くらいだろうか、落ち着いた夫婦連れが多い。地味な格好をした二人連れ、ディバックとお弁当、そしてカメラをもった老夫婦の姿が仲睦まじく映る。俺も歳をとったらここに来て、お互いに話ができて仲よく手などをつなげる同伴者などがいるのだろうか。あと10年20年、そのときにいったい誰といっしょにいるのだろうか。

 ライラックの小径の前に広場があって、素晴らしいローン(芝生)のなかで老人グループが写生をしている光景がみられた。初夏と表現していいのだろうか、暑くなく、寒くない気持ちのいい日射しのなかにひろがるグリーン、グリーン・・・、なんと気持ちがいいのだろう。大樹がたくさん残っていて、原初の北海道の自然を維持している努力は大変だとつくづく思う。こういう人間の努力の積み重ねを戦争などは一瞬のうちに壊してしまう現実を考えると、人間の賢さと愚かさについて考えさせられてしまう。本当にここでは時がとまってしまったような気がする。久しぶりに本来の自分を取り戻し、自分らしい時間のなかにいる気分だ。いままでは大体がほかの人のためというか、ほかの人との時間の共有だったわけだけれど、いまはちがう。自由を満喫する。

 大きなハルニレの樹、よらば大樹の陰とはよく言ったものだと思う。どういうわけだか、この樹の下にいると心が落ち着いてきて、ハルニレの樹が大好きになってしまった。この樹一本で、大気中の炭酸ガスを光合成で酸素に変えて、樹内に水分をたくわえて鳥を休めリスを遊ばせる。たいしたものだと思う。挙げ句のはてに太古の昔より、この場所にじっとしていつも変わらない姿を見せている。うれしいな、今度北海道に来たらまず一番にこの樹に会いに来ようと思う。

 少し歩くと北方民族植物園がある。セイヨウタンポポとエゾタンポポの差がよくわからない。写真を撮っている外国の女性がいる。真似をするわけではないが、二種を比較して写真に撮る。そのほか、ハマナスは→アイヌ、果実を食用、木を削り煎じてお茶の代用にする。産後にエゾノリュウキンカとこの実を煎じて服用。病魔よけに戸口に立てる。入れ墨の浸出液に根の部分を使用。子どもは果実で首飾りをつくる。オニシモツケ、ウラジロタデは若芽、茎、果実を食用。ギョウジャニンニク、ワラビ、オオバナウド、オオウバユリ、エゾキスゲ、エゾカンゾウなどなど・・・。

 静かな園内に突然賑やかな声がしたので見ると、幼稚園児の遠足だろうか、若い保母さんに連れられて園内を見てまわっているところだった。組によって色がちがうのだろうか、緑一色の園内で赤い点、黄色い点、白い点がチョロチョロと列をつくって移動の最中だ。幼稚園児、絵を描く老人、散歩する老夫婦、それらをとりまく自然(なんだこれは!これが世界じゃないか、ここに世界が存在しているぞ!)。そんなことを感じながらちかくの売店でひと休みする。店内においてある北大植物園に関する本が売れている。図鑑があり、地図があったが、俺はここで葉書を買った。野のぬり絵という葉書で、タンポポ、コマクサ、ラベンダーの3種だ。後でゆっくりと彩色しようとおもう。

 若いお母さんが幼い子どもをバギーにのせて休んでいる。東南アジアの観光客がスカーフを買っている。みんなが自由にそれぞれの時間をすごしていた。売店をでると、高山植物園にむかった。息子といっしょに大雪山で見ようとおもっていたコマクサをここで見る。なるほど、とてもほそい草、まるでパセリのようだが、白い花があぶな気についていて、白尾コマクサと書いてあった。そのほか、キンロバイ、イブキトラノオ、ヒダカカミセバヤ、エゾノチチコグサなどだが、山に登ってその景色のなかで見たならばもっと感激はしただろう。訊いたら、6月のはじめではまだ大雪山の黒岳に登る入り口の山小屋では雪が降り積もっていて、冬山登山の格好をして尚且つ、小学生ではとても無理だろういといわれてしまった。

 結局こういう形で出張の合間に、俺だけぶらっと植物園にきたということなのだ。小径のさきになにやら動くものがいたので目を凝らすとリスだった。この植物園にいたのは2時間くらいだろうか、短い時間のなかでとても長くいたような気がした。静寂のなかで久しぶりにゆっくりとできた喜びと満足感がそう感じさせたのだとおもう。これからはひとりの時間をたまにはもつべきだと考えさせられた体験だった。〉

DSC07534 1992年6月6~8日、玉原高原キャンプ「父親のためのアウトドアスクール」。6月13~14日、房総ちろりん村キャンプ場。7月31~8月3日、BE-PAL OUTDOOR SUMMER MEETING。8月15~16日、富士登山。9月12~13日、内浦県民の森でバンガロー泊。10月10~11日、塩原グリーンビレッジコテージ泊。10月17~18日、塩原グリーンビレッジコテージ泊。11月21、日光湯元。11月22日、鹿留キャンプロッジ泊。12月6日、日光湯川。

 1993年4月3日、塩原グリーンビレッジ。4月24から25日、塩原グリーンビレッジコテージ泊。5月4~5日、猪苗代湖モビレージキャンプ。5月15~16日、ティムコフライフィッシングスクール(鹿留ホテル)。5月23日、日光湯川フライフィッシング。5月29日、日光湯ノ湖フライフィッシング。6月15日、鹿留管釣り場。7月3日、銀山平でキャンプ。7月10日、神子内川。8月6~8日、BE-PAL CAMP。8月12~15日、鹿留川キャンプ。8月28~29日、御殿場トヨタハートフルキャンピング。9月25~26日、西湖レイクサイドキャンプ村。10月9日、丹沢ウェルキャンプ。10月16日~17日、那須でFIELD&STREAM主催のキャンプ。

 1994年5月4~5日、八ヶ岳清里キープ協会泊。 5月14~15日、八ヶ岳でフライフィッシング。と、ここまで几帳面にもきちんと記録してあって、しかも一読まるで怒涛のごときアウトドアライフ邁進の日々が続いている。遊びの相手は息子だったり、家族だったり、交友関係のあった人たちばかりだがよくもまあここまで付き合ってくれたというか、付き合ったというかわれながら感心する。ノートに書いてある事柄を書き出しはしなかったが、観察した植物の絵、野鳥の鳴き声、観察のためのトレイルマップ、釣果などがつけてある。そうそう、だれの詩だかわからないのだが、こんな一節も記帳している。

 おまえの母が焼くパンを口にして
 朝のおまえは小麦の精に戻る
 
 その冷たい指に触れられて 
 わたしは唇を魚の形にひらく

 光あれ
 魚のうろこは予言を包み
 塩はあふれている涙の壺に魂
 
 帆に描かれたしるしの外に
 明日をひろげる神々の網

 それと、こんな言葉も書きとっているので、参考までに転載しておく。
 〈失敗してもおもしろいという人間の営みはもうごくわずかしか残されておらず、釣りもその一つだ〉
 〈釣りは、人が寂しさを感じることなく孤独であることができる、地上に残された数少ない場所の一つだ〉
 Anatomy of a Fisferman by Robert Traver

  

堀辰雄

imagesL4KFY1YL BE-PAL誌に連載の「旅人失格」(平野勝之)のバックナンバーが読みたくて区の図書館へ行った。今月号に登場の北海道、チミケップ湖の写真がきれいだったので、釣りキャン旅行の立寄りポイントとしてメモをしておく。この湖でカヤックをたのしみたいので、フォールディングカヤックは車に積んでいくことにした。いつのことになるのかわからないが、メモの充実は旅への欲求と期待を少しずつ高めていってくれるはずだし、旅の楽しみはこうしてすでに机上からスタートしているものだから。

 「旅人失格」のほうは〈おそのさん〉という女性(恋人?)と一緒の自転車旅のもようをAV監督の平野勝之という人がリアルにつづったものだが、へえBE-PALもこういうものを掲載するようになったんだとチョイとした感慨をもった。

 館内でほかの雑誌を手にとってぺらぺらしてたら、堀辰雄について書かれたページがあった。彼の「風立ちぬ」や「美しい村」などまだ読んだことはないが、八ヶ岳に釣りに行ったさいに冨士見高原診療所には立寄ったことがある。竹久夢二や横溝正史などの文人もここで療養生活をおくったところだが、そのころはまだ建物が資料館としてのこっていたのだ。すると突然、あれはいつのころだっただろう、と思い出の連鎖が始まった。私が20代の終わりころにグアム島のサマーキャンプの仕事をしていたときのことだ。現地に旅行に来ていた福岡の薬剤師さんと知り合いになった。帰国後、連絡のあった彼女に誘われて福岡へいった。数日間、一緒に彼女の案内で九州を旅したことがあった。その後、東京へ出張だといってはやってきたり、私の船橋への転勤の手伝いに来てくれたりしてしばらく付き合いが続いた。この彼女が猛烈な堀辰雄ファンで、小説の熱い講釈が延々と続いた。とくに「風立ちぬ」と「美しい村」は絶対に読むべきだと執拗にすすめていたが、私はウンウンと生返事をくり返しただけで結局読むことはなかったのだ。

images そんな思い出にひたりながら図書館の書架から新潮文庫の「風立ちぬ・美しい村」を手にしてみた。読んでみようかな、ふとそうおもった。雑誌には次のように紹介している。〈堀辰雄が初めて信州軽井沢を訪れたのは18歳の夏。以降、幾度となく来訪するうち滞在期間も延び、過半の日々を過ごすようになっていく。西洋の香気あふれる高原の避暑地は、彼の文学を形成する礎となった。名作「風立ちぬ」もこの地で紡がれた。

 ●ほり・たつお(1904-53)東京生まれ。東京帝国大学国文科卒。作家。代表作に「美しい村」「風立ちぬ」「菜穂子」。詩誌「四季」の編集も手がけた。〉

 『僕は・・・・』
 僕は歩いてゐた
 風のなかを

 風は僕の皮膚にしみこむ

 この皮膚の下には
 骨のヴァイオリンがあるといふのに
 風が不意にそれを
 鳴らしはせぬか

    ★

 硝子の破れてゐる窓
 僕の蝕歯よ
 夜になるとお前のなかに
 洋燈がともり
 ぢつと聞いてゐると
 皿やナイフの音がしてくる

 〈昭和8年初夏、28歳の堀辰雄は例年の通り軽井沢を訪れた。辰雄はすでに、フランスの芸術家・コクトーらの訳詩、『ルウベンスの偽画』『聖家族』などの小説を発表している新進の作家。この夏は、高原の避暑地を舞台にした新しい物語を書き上げたいと思っていた。

 辰雄の小説作品の誕生には、クラシック音楽が深く関わる傾向があった。このときの辰雄は、バッハの「ト短調の遁走曲」に刺激を受けながら筆を進めた。終盤に向けて筆が滞ったとき、麦藁帽子の背の高いひとりの娘と邂逅した。この出逢いによって、物語は思わぬ進展を遂げ終結した。完成したのは、詩人・萩原朔太郎が「散文で書いた抒情詩」と絶賛した「美しい村」。娘の名は矢野綾子という。

無題 綾子とは翌年の夏も、軽井沢で逢瀬を重ねた。綾子にもらった和菓子を、辰雄は「虫歯にしみるから」と言って、年少の詩友・立原道造に分け与えたりもした。

 ふたりはまもなく婚約に至った。けれども、綾子は胸の奥に結核という病を抱えていた。辰雄の胸の奥にも同じ病が巣くう。危うさをはらんだ婚約生活だった。病状が悪化した綾子の療養のため、辰雄は付き添って、冨士見高原のサナトリウムへ入所した。辰雄が次第に健康を取り戻すのと裏腹に、綾子は重篤となり、昭和10年12月6日、儚くも命を散らした。

 しかし、辰雄は絶望の淵から立ち上がる。翌年秋、筆をとり綾子との物語を紡ぎはじめた。普通の人々がもう行き止りだと信じているような場所から始まり、死に密着し生を凝視した恋愛小説「風立ちぬ」。作中には、ヴァレリーの詩の一節が通奏低音の如く響く。(風立ちぬ いざ生きめやも)。そこには、静謐だが強靭な生への意志が湛えられていた。〉


 

長いお別れ

 録画しておいたNHKの土曜ドラマ「ロング・グッドバイ」を朝の起きがけにベッドのなかからみた。ハードボイルドの最高傑作といわれ、フィリップ・マーロウという名探偵を世に送りだしたご存じアメリカの小説、「ロング・グッドバイ」(レイモンド・チャンドラー作)のドラマ化だ。1月の19日にこのブログでもふれているが、1950年代半ばの東京を舞台にどうドラマ化したのか興味津々でみた。この時代、戦後復興から来る〈豊かさへの時代〉への大転換期にあり、人々の価値観が大きく変化していく激流のなかで流されず、見失わず、真に正しい道だけを選びとって生きていく困難さと意義、それを主人公の姿を通じて見せていくという。真の友情とはなにか、"喪失と再生"の時代の生き方とは・・・。現代に通じる普遍的なテーマを描く、とHPでは紹介している。

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 本来ならひとくせもふたくせもある探偵(浅野忠信)にしては、人のよさが表情に現れていて、怖さとか凄味とかを感じさせない。外見は申し分ないのだが、笑うとなにやら相手におもねっているかのようで人間像の深み、重みが台無しになってしまう。どうもロバート・ミッチャムや、ハンフリー・ボガードの印象が強いせいか、ハードボイルドって日本人が演じるにはムリがありそうな気がする。そもそも日本人の顔はのっぺりとしていて、深みのある陰影に恵まれるのは稀だと感じるのだが。ひと時代前の黒沢映画の時代劇ならまだしも、現代のおちゃらけた日本に本格的なハードボイルドさがしはむずかしいかもしれない〈ハードボイルド=感情や状況に流されず、軟弱、妥協をきらう生き様〉。

 ただし、主役以外の出演者はみな個性的でクセも感じさせて魅力的で申し分ない。冒頭に登場する女優(太田莉菜)の我がままぶりもハンパなく、エキセントリックな演じようはピタリとハマっていてつかみは完璧。セットも素晴らしく、50年代の日本とは思えないような無国籍風の街並み、煙草の煙、エンジンの音、探偵の事務所、バーなど雰囲気満点で美術、照明、音声、カメラなどの裏方さんの力量を感じるし、音楽もいい。なのでどうだろう主人公のセリフ&笑顔は一切なしでそのかわり、渋いナレーションにするともっと雰囲気がでるとおもうのだが。

 瑣末なことだが、バーでケンカ別れをしたタモツ(綾野剛)が後日、事務所のドアをたたき血だらけで拳銃を手にして訪れたさいは、「コーヒー飲むか」ではなくて、「なにか飲むか」といってバーボンをグラスに注いでテーブルにコツンとおいたらもっとサマになったような気がした。そう、私のテレビの楽しみ方は自由気ままにこんなスタイルだ。ストーリーを変えることはないが、自分勝手にを想像をふくらまして自分勝手に演出をしてしまう。結局、主人公のノーマルさとナイーブさが際立つドラマだったように感じたが、観終わってやたらコーヒーが飲みたくなってしまった。毎土曜日連続5回とのことだが、次回も録画するつもりだ。

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秀吉の陰謀

 朝、シャワーのあとで昨日のホームセンターで買ったヘアトニックについてきた試供品のラベルを見ておどろいた。シャンプーと書いてあるではないか。じつは昨日家にもどって買ったばかりのトニックを試そうとおもい、まずは試供品のほうから使ってみたのだ。やたらベタベタするヘアトニックだとおもったら、なんだよ、シャンプーだったんだ。ということは一日中シャンプーをつけたまま過ごしていたことになるではないか。どうりで頭皮と髪の毛がねっとりとした感じだったんだとおもいだして、バッカじゃないの、と笑いながら自分に突っ込んでみた。歳とるとうっかりも多くなるよね。

dac4a6279fd83c18924a15e27c6d1380 返却日も迫っていたので、「秀吉の陰謀」(井上慶雪)を読み始めた。アマゾンのブックレビューによると、〈なぜ彼は信長を裏切り、光秀に濡れ衣を着せたのか?明智軍が本能寺に到着した時、すでに信長の首は討ち取られていた―「羽柴秀吉こそが首謀者」を実証。茶道に精通する研究者が、徹底的な現地取材と資料渉猟によって約四三〇年ぶりに明らかにした「光秀の冤罪」〉とあったが、なるほど信長の死にたいする秀吉の陰謀説はさいきんよく耳にするので、チョイそそられる気分でページを開いた。

 たしかに本能寺での信長の死は光秀が実行犯と教えてもらってきたが、結果的には秀吉が援軍を要請したばっかりに信長は本能寺に宿泊する羽目になったのであって、手薄な警備のせいもあり光秀に簡単に謀反を起こされて自害することになった。著者はさいきん主流となっている説、〈信長を亡き者にしようとしていた「黒幕」が光秀の葛藤に目を付けて肩を叩く〉説に与するものでもないと書いている。この黒幕に関して、「朝廷黒幕説」、「足利義昭黒幕説」、「イエズス会黒幕説」、さらに「斉藤利三扇動説」、「徳川家康黒幕説」までさまざまな揣摩憶測が飛び交っているようだという。

 そして「本能寺の変」において、光秀は完全な冤罪。実際は秀吉が仕組んだことであり、実行犯は秀吉が組織した軍団だという。読みすすめていくうちに著者がこれまで研究を積み重ねてきた実証史学の集大成であるというとおり、なかなか説得力もあっておもしろい。かって勤めていたM社にもこの信長タイプの上司がいて、この人の配下のトップたちと酒を飲みかわすと必ずこの上司の悪口のオンパレードになる。なかには「あのヤローを誰か殺してくれる奴はいないだろうか」と真剣に相談を持ちこまれたこともあった。なので、下剋上などフツーにありの戦国時代に陰謀説はもっともなことだとすんなりと納得してしまう。ただし定説として受け入れられるには、もっと専門家の研究が必要だと感じた。

 ところで昨日、Hから女児を出産したと連絡があった。相手の男との入籍もぎりぎりまで迷ったけれど、2月にすませたという。ウツで飲んでいる薬との併用に気を使ったが、無事に元気な赤ちゃんだという。Hが20歳のころから10年になる付き合いなのでおっとりとした柔和な性格なのはよく知っているつもりだ。大丈夫、君ならいいお母さんになれるよと本心から励ました。


トマト

 去年、顧客からもらったハスの花の開花を待っていたのだが、どうやら芽吹くことなく失敗に終わった。鉢を見ると水中ではボウフラが数匹さかんに上下運動をくりかえしている。さっそく水を捨て、そろそろトマトの苗を買ってこようとおもった。ちかくのホームセンターに向った。

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 天気のいい土曜日、ファミリー客がたくさんきて、いろいろな野菜の苗を選びながら楽しそうにカートに放りこんでいる。見ているとやはりこの時期、トマトの苗が多いようだ。さっそく大きめのプランターをふたつ、野菜用の土、石灰、支えのポールセットなどをカートに入れてから苗を選んだ。私もまずはトマト、紫蘇、サンショウの苗などを選んだ。家にもどり、枯れたままの鉢を整理してプランターに土を入れて支柱をたてて、トマト、紫蘇の苗を移植した。ご覧の通りだが、はたして上手にトマトは収穫できるのでしょうか?乞うご期待。

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石碑

DSC07520 昼ころに蓮沼で仕事が終わり、小雨のなか海岸線に沿った30号線を九十九里方面に向けて車を走らせた。なにやら道路沿いには石碑の案内板が目立つ。九十九里の海岸から生家のちかい伊藤左千夫はわかる。濡れた石碑には、〈天地の四方の寄合を垣にせる九十九里の浜に玉拾い居り〉と左千夫の句が刻まれている。しばらくいくと小さな漁船が数隻停泊している旧片貝漁港のまえにも石碑が建っていて、こう刻まれている。〈待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬそうな〉と、ご存じ竹久夢二の有名な歌だがなぜここに?と疑問がわいたので九十九里の観光ガイドのHPでしらべてみた。

DSC07522DSC07521                      







 こう紹介されていた。〈文人、芸術家が愛する九十九里。そのひっそりと立つ石碑からは夢二の思いが伝わってくるようだ。外房の荒海に向かう漁船が停泊する旧片貝漁港の傍らの松林には、文人、芸術家「竹久夢二」の石碑が建立されている。九十九里と夢二(1884-1934)の接点を探ってみた〉とあって、〈夢二は明治17年岡山県の酒屋生まれ。早稲田実業在学中の明治38年、コマ絵『筒井筒』の一等入選により初めて世に名をあらわした。24歳のとき最初の妻たまきと結婚、長男虹之助をもうけた。が、2年で離婚。原因は夢二が銚子の海鹿島で『カタ』という女性に一目ぼれしてしまったからだ。夢二は何かしら口実をつけてはカタに会いに行った。そのときのことを「九十九里月見草さく浜づたひものおもふ子はおくれがちにて」と夢二は詠んでいる。

images しかしカタは鹿児島で結婚してしまい、その恋は叶わないものとなった。皮肉にもこの失恋があの有名な『宵待草』を生むきっかけになったのである。夢二の傷心のうたとして…、その後『宵待草』は歌や映画にもなり人々に親しまれ続けた。そして『宵待草』の碑が全国各地に建てられ、1966年9月には九十九里浜にも碑が建てられている。大正3年、夢二は生涯の恋人『彦乃』と会う。しかし大正7年彦乃は病に倒れ 25歳という若さでこの世を去った。 その後夢二は数々の女性を愛したが、その 悲しみが消え去ることはなかった。そして 夢二自身も49歳(昭和9年)でこの世を後にする〉

 途中の東金市内で昼にする。ときどき立寄る蕎麦屋、「逸香」で昼のセットをチョイスしたが、前回も同じものを選んだような気がするがリーズナブル(920円)に感じる。こじんまりとしているが、店員の対応もいいのでおススメ。満足して千葉に車をむけたが、土気のブックオフにてつい以下のように7冊を購入してしまう。店員に「なにかお売りになるものがありましたらぜひどうぞ」といわれたが、またぞろ本がたまって処分したくなったら持ちこみますよ、と胸の内でつぶやいた。

DSC07524 「新東京百景」(山口瞳)、「トリオリズム」(叶恭子)、「広重殺人事件」(高橋克彦)、「北条政子」(永井路子)、「目からウロコの古代史」(武光誠)、「空気の研究」(山本七平)、「北海道の諸道」(司馬遼太郎)。
 

春爛漫

 幕張で昼に仕事をすませてから、ちかくの検見川浜へ車をむけた。春真っ盛りの気持ちのいい日だったせいか、浜辺にはちらほらと子ども連れの姿もみえる。何人かは潮干狩りをたのしんでいる様子で、桟橋の下の砂浜で一生懸命に掘っているオジサンに訊くと、バカ貝とアサリがかなりの収穫だというではないか。見せてもらったが、結構な数を獲っていたので驚いた。

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 浜辺から湾曲して張り出している桟橋をのんびりと釣り人にまじりながら歩く。ときどき、「釣れますか」などと声をかけながらいくと、ところどころでおしゃべりの花が咲いてしまう。桟橋の釣り人は孤独なのだ。こちらから話しかければすぐに会話が成立する。海面に音をたててボラだろうか、あちこちで跳ね上がる。釣り人は、「いやーッ、ボラを目当てにスズキがやってこないかとおもってさ」などとスズキ目当てのルアーをニコニコ顔で遠投する。桟橋の突端までいったがだれも釣れている人はいなかったが、釣り人たちはそれでも気持ちのいい気候にめぐまれて、広々とした海面めがけて竿をおもいきり振ってたのしんでいるかのようだ。まわりにはウィンドサーフィンのボードも周遊していて、その先には春霞のなかに川鉄の工場群がうっすらと浮かびあがる姿が遠望できる。

DSC07491 陽のなかに顔を突きだすかのようにして歩いた。きっと焼けるにちがいないが、いまさらあちこちにシミのうきでた顔に気を使うこともない。どうどうとした気分で海の真っただ中でひとり、おもいっきり太陽に顔を向けた。桟橋のベンチに腰掛けて目をつぶってみたが、全身素っ裸になった私を陽光があたたかく包んでくれたような気分だった。

 桟橋から浜に近付くと、オジサンが「釣れてますかね」と声をかけてきた。鎌ヶ谷から車でやってきたといい、このへんの釣り情報を交えながらしばしの会話。私は500円の駐車場にとめたが、オジサンはいつものように道の向こうの無料駐車場にとめたと、場所を教えてくれる。すぐ下の浜でさっきからなにか掘っていた別なオジサンがビニールバケツを下げてやってきた。私たちは見てもいいですかと断ってからオジサンのバケツをのぞいてみた。

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 大粒のアサリがたくさん獲れている。最初のオジサンはのぞきこむやいなや、こんな大きなアサリなら3000円はするぞ、と興奮気味に叫んだ。つい最近スーパーでアサリを買ったら10粒くらいで360円したと説明する。ペットボトルのなかにはなにやら得体の知れない生き物がたくさん蠢いているので、「えーッ、これなんですか」と私。オジサン、「アナジャコだよ」と教えてくれる。アナジャコ、初めてきく名前に私はそれでもシャコの仲間なんだと想像はついたが、「じゃ、これ食べれるんですか」とまるで小学生の質問のように問いかけた。オジサンは食べるのではなくてクロダイのエサに使うのだと教えてくれて、「これからがクロダイのいい時期なんだ」といった。ひとしきり近辺の釣り情報に会話が終始したが、なにやらこころが解れていくようで、ほっこりとした気分だった。帰ってウキペディアで調べたら、〈日本では食材として一般的ではなく、あまり流通しないが、知る人ぞ知る季節の美味ともいわれる。塩茹で、素揚げ、天ぷら、味噌汁などに利用できる。クセがあるため、調理法は限られている。殻は柔らかくほとんど丸のまま食べられるが、頭部先端付近のみ硬く鋭いので、ここを切除するとよい〉と説明していた。

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 オジサンと別れてすぐちかくの稲毛海浜公園の花の美術館へ車をむけた。駐車場にとめたが、ここは300円だった。館内には入らずに脇からのボーダーガーデンをぐるっと歩いた。入り口ではチューリップの花やポピーの花が満開で色とりどりに迎えてくれる。もちろん、ボーダーガーデンも花盛りでお弁当を買ってくればよかったかなとチョッピリ後悔した。お腹がへった。隣接のレストラン「ブリランテ」で和風ハンバーグのランチをテラス席でとったが、前回ここで食べたときよりもおいしく感じた。ここは愛犬の同伴もオッケーなので、係の人が犬を連れたお客さんと愛犬とのツーショット写真を撮っていた。見ていたが、犬はお行儀がよかった。

 食事を終えて外にでた。上の写真のように猫の姿を多くみかけたが、飼い猫のようなそうでないような姿にチョイとしたナゾを感じる。浜辺にでてみた。波打ち際で母親が子どもを遊ばせている微笑ましい光景がそこかしこでみられる。いまごろ、夫のほうは会社で一生懸命に働いているのだろうか。そうであってほしいよねと、チョッピリとこころのなかで願った。

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三度寝

 明け方の4時半に目ざまし時計がけたたましく鳴って目が覚めた。見るとサイドテーブルのMの携帯が鳴っていて、となりにMが寝ている。昨夜遅くに泊めてもらってもいいですか?と電話があってやってきたMは、なんでも明朝はやく従兄に弁当をつくる約束で、4時半に起きるけどTさんは寝てていいからね、といいながらもってきた弁当用の食材を冷蔵庫にしまっている。それから炊飯器に一合のご飯をセットして風呂に入った。で、今朝の目ざまし音に私は起こされたというわけなのだ。

DSC07475 寝てていいよといったわりには私に玉子焼きを手伝わせて、なにやら写真のようにチマチマとした弁当をつくりあげていた。6時50分にちかくのコンビニの駐車場で待ち合わせていたようで、でき上がった弁当を渡しにいった。私はシャワーを浴びたが、帰ってきたMに訊くと、従兄は双子の一卵性兄弟で弟のほうが、住んでいる九十九里から千葉駅まで毎朝車で長兄の送り迎えをしているとのこと。Mより2歳年上の32歳でいまだ彼女もいないという。感心なので今度弁当をつくってあげると約束をして、それが今日だったという。

 へえー、すごいなそりゃと私はあいの手をいれた。Mは弁当の残り物で自身の朝食をつくり、私はトーストのレタス&ハムサンドイッチと紅茶を淹れてテーブルに運んだ。バッグのなかに御霊前の袋があったので訊けば、同じ年の友達が自殺をした49日にあたるのであとで持っていくんだという。バツイチで4歳の子どもも道連れに練炭自殺だったそうで、ウツだったんだよね彼女、とMはつぶやいた。さいきんこの手の話をよく聞くが、日本の自殺者数の割合はアメリカの倍だそうで、20~40代の比較的若い年齢者層は高齢者の自殺者減少に比べて横ばいだという。共通の知り合いのSUさんが病気で入院、おじちゃんも入院、と続けば朝食の話題に相応しいわけではないが、身近な事実に二人でぼそぼそとした暗い会話になった。

DSC07476 Mの帰ったあと、10時まで2度寝をした。その後、11時に市原市の顧客宅へいく。仕事が終わり、ちかくの養老川の流れを目にしたら、せっかく市原のここまで来たのだからあのICHIHARA ART × MIX 2014 へ行こうとおもいナビで検索するが、行きたいとおもった旧月出小学校や上総大久保駅まで1時間以上かかりそうだ。だったら、やっぱり小湊鉄道に乗って電車旅をたのしみながら後日いくことにしようときめた。帰路、上総更科公園の駐車場に車をとめてしばし周辺を散策。子ども連れが少しと、年寄りの散歩姿だけののどかな公園風景だ。

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 〈広大な水辺と豊かな緑で形成される、およそ9.9ヘクタールの広々とした公園。名称「上総更級公園」は、多くの市民に親しまれ市民が集う場となるよう、一般公募の中から決定された。園内には、緑に関する情報発信基地となる公園センターを始め、スケートコート、軽スポーツ広場、芝生広場、修景池など、数多くの施設を備える〉と広報には紹介されているが、空から雲雀の合唱が降りそそぎ、草地ではムクドリ、ハクセキレイ、ドバトなどがエサを啄みじつにのどかな光景がひろがる。

DSC07483 TSUTAYAでブックハンティングしてたら、刺激されたのかちかくの市原市中央図書館へむかった。なかへ入ると項目別に書籍が分類されていて、書架での背表紙が見やすく感じる。詳しく調べたわけではないのだが、千葉市中央図書館と比べても蔵書量に負けていないような印象だ。ここで一時間以上をついやしてから家にもどると、3時だった。4時半に起きてから、その後1時間二度寝をしたとはいえ眠い。なので、ソファで2時間シエスタとあいなった次第だが、これって三度寝ってことになるわけ?

街の灯

 午後、市内で仕事をすませて帰る途中にちかくのスーパーによった。家のちかくのいつものスーパーとちがってかなり大きな店舗なので、置いてある商品の数も種類もハンパない。30分近くを店内をうろうろして買い物をすませたが、結構たのしかった。

無題 家にもどり、買ってきた魚、野菜、肉、果物などを冷蔵庫へ収めてからチャップリンの映画、「街の灯」を観た。ストーリーはご存じのかたも多いでしょうが、アマゾンのレビューによると、〈街角で花売りをする盲目の少女は、なけなしのコインで一輪の花を買ったチャーリーを金持ちの紳士と誤解してしまう。チャーリーは、この誤解をきっかけに、少女を助けようと懸命な金策に走り回ることになる…。3年の歳月を費やして製作され、チャップリンの作品のなかでも最もロマンチックな一篇であり、公開されるや感動の嵐を呼んだ。世界大恐慌後の混沌とした時代を背景に、アメリカの世情、社会の矛盾、そして人間の愛を、寂しくも美しく描いている。音響は音楽と効果音のみで、セリフは字幕という実質的なサイレント映画。無声であることが観る者の心に深くしみわたる愛を感じさせ、テーマ曲「ラ・ヴィオレテーラ」の美しいメロディや効果音が、より一層作品を盛りあげている。チャーリーは従来の監督・脚本・主演・編集に加え、この作品から作曲も担当し、その才能を開花させた〉と紹介している。

 観ていて、じつに緻密な計算のもとにつくられていると感じる。冒頭の演説のシーンなど既成の権威に対して痛烈な皮肉をぶつけているし、このシーンを撮るだけでチャプリンはかなりの時間を割いたにちがいないとおもわせる。ウィキペディアによれば、完璧主義者のチャップリンは、ジョージア演じる花売り娘との出会いのシーン(正味3分ほど)に342回のNGを出し、1年以上かけて撮り直しされた(撮影日数534日のうちこのシーンの撮影だけで368日かけている)といわれ、結局側近の忠告で当初この役を演じる予定だったヴァージニア・チェリルを復帰させ、撮影が完了したのが1930年10月5日になったという。

imagesEL36OS8F 出会いのシーンがこれ。娘が盲目だとわかるまでの二人の演技に引き込まれ、無声映画の極致を見る思いがする。〈チャップリンは自分の映画が世界中で大ヒットし、世界の喜劇王になれたのは、言葉がなくて、彼のアクションというか身体の動きや表情のユニークさと、そこから編み出された秀逸なギャグからだと考えていた。言葉に関係なく世界中が爆笑できるし、「一粒の涙」を流させることもできる。それで充分ではないか。そんな考えをもっていたから、『街の灯』はトーキーでは作らなかった。無声映画に対するチャップリンの自信の表明でもあるし、トーキー映画への抵抗でもあった。音楽だけは最初から作曲して入れた。サウンド版のサイレント映画である〉と「チャップリンを観る」(吉村英夫)は言っている。

無題 そして謎のラストシーン。「街の灯」はこのラストに集約されていくドラマだから、いちばん重要な場面だが、カットの変わり目でチャーリーの手にするバラの位置が胸のところと、口元のところでと整合性がともなわないのだ。なんといっても出会いのシーンだけで342回ものNGをだすほどの完璧主義者のチャップリンだ、編集でミスをするようなことではないと考えると、観客へのなにかしらの問いかけだろうか。そしてもう一点、映画を観ていなければわからないのだが、二人の恋の行方はどうなるのかを観客の判断にゆだねる点だ。二人の愛の成就と不成就の結末は?投げかけられた謎の塊を受けとった観客には深い余韻が残り、映画の奥深さが心にしみてくるエンディングだ。

 漫画家の故手塚治虫は、「人々の記憶に残る漫画を描くためにはどうしたらいいか」という質問に、「とにかくチャップリンの映画を観ること。あれにすべての答えがある」といったという。もしDVDをご覧になるなら二人以上でご覧になるといいかもしれない。そして観たあとでぜひ感想をお互いに述べあってみたらいかがでしょう。かなり人生の深いところへ話題が誘われることを保証します。

キッド

images チャップリンのサイレント映画、「キッド」(1921年公開)を再見する。50分の中編ともいうべき作品だが、モノクロ、セリフなしのご存じ無声映画の傑作だ。タイトルのあとの字幕にA picture with a smile ―― and perhaps, a tear 〈ほほえましく たぶんひと粒の涙をそそる映画〉と書いてある。映画のなかでは字幕が少しつくだけなのだが、その分映像ですべてを表現するするため、ちょっとした仕草やシーンがじつによくできていて、“目”ですべてがわかるようにつくられている。シーンのはじめ、慈善病院みたいなところから乳児を抱いて出てきた女性、彼女に向けられた看護婦さんの嘲笑、そのたった一瞬の表情で女性の境遇が一発でわかる。さしずめ現代のドラマなら女性の去ったあと、看護婦同士のあれこれとしたおしゃべりによって観客に理解を求めるのだろうが、さすが天才チャップリンは、映画が映像の芸術であるからには言葉に頼らずに映像によって観客にすべてを伝えようとする。徹底的に表情と所作とアクション、すなわち身体で表現をしてみせる。

 チャプリン(1889-1977)は本質的にはパントマイム役者で、録画してある「街の灯」、「独裁者」、「黄金時代」などをみていても映像の重要性を映画の本質だと終生信じつづけたひとだったことがわかる。字幕が表示される。〈女――その罪は母たることであった〉とあって、ゴルゴダの丘へ十字架(人類の苦と罪の象徴)を背負って登っていくイエスの姿が数秒挿入される。そして女は金持ちの家の前に止めてあった車のなかに子どもを置いて去っていく。そう、物語を簡単にいってしまえば血のつながらない親と子のきずなを描いたとでもいうべき内容なのだ。チャーリーが道端に捨てられた子どもと出会うシーン、メキシコから移ってきた人たちが住みつき、集落をつくったロサンジェルスの地名のもとになったオルベラ街だ。そこへチャーリーがあの独特の歩きかたでやってくる。それだけで私などは手をたたいて顔からは笑みがこぼれる。歩くシーンをみただけでこんなに幸せな気分になれる役者なんてほかにだれがいるだろうか。

無題 写真は成長した5年後の姿だが、この子役(ジャッキー・クーガン)がじつにかわいい。故淀川長治さんの解説によると、見つけたのは当時チャップリンの運転手をしていた日本人、高野虎市というひとで、ある日映画館へいって映画と映画の合間のボードビルにでていたジャッキー・クーガンに魅せられてチャプリンをその場につれていったことがきっかけだったそうだ。この子が映画のなかで身につけているツギハギだらけのだぶだぶの服や、ハンチングの似合っていること!その後の日本の美空ひばりや宮城まり子の靴磨きスタイルのルーツがこれだ。

 「チャップリンを観る」(吉村英夫講義録)という本のなかで、〈『キッド』の特徴は、コメディであるのに、「笑」とともに「涙」も描いていることである。世界の映画史上で、やがて「人情喜劇」と名付けられるジャンルの確立を宣言する作品でもある。「人情喜劇」という言葉を知っているいないにかかわらず、喜劇が笑いと涙の往復運動で成立していることを諸君は経験的に知っている。吉本喜劇の影響もあるだろうし、コメディとは、もともとそんなものだと思い込んでいるはずである。それはチャップリンに由来するといってもいいのである。

 世界の喜劇映画の歴史で、「人情喜劇」のはたした役割は決定的に大きい。喜劇の主流が人情を含んだ笑い、すなわち泣き笑いこそが喜劇の主流として位置づけられたからだ。笑いと涙の往復運動が大事なのだ。笑いと涙の振幅の大きさ、それが保障されることで喜劇映画は、映画としての品位というか品格までが格上げされることになった〉と書いている。

 ところで、映画のなかでチャーリーが夢を見るシーンがある。チャップリンは、1920年に女優ミルドレッド・ハリスと離婚したのち、1922年から1923年にかけてポーランド女優ポーラ・ネグリと交際し、一時は婚約までいったが、最終的には破局し、その後このシーンに天使役で出演していたリタ・グレイ(当時16歳)とできちゃった婚をする。このときの年齢差からチャップリンは「小児科医」と呼ばれたりしたが、二児をもうけ1928年、すったもんだのあげく離婚。このときのチャップリンがリタに支払った60万ドルをこえる慰謝料は、当時のアメリカの裁判史上最高額の慰謝料であり、このことをふくめて100万ドル近い出費をする羽目になった。リタはこのことで悪幼妻として有名になったといわれるが、映画のなかで天使を演じてチャーリーを誘惑するシーンに二人の後年の運命を感じることはない。それだけ作品の内容が優れているという証拠だろう。

 4回か5回、チャップリンのギャグに声をたてて笑った。観終わってちょっぴり優しい気持ちになった。いずれも再見だが、HDDに録画してあるチャップリンの映画をときどき観ようとおもった。


カレーパン、メロンパン

 早く起きた朝、食事をすませるとソファにコーヒーを用意してトレーにCDをのせた。なににしようかチョイ迷ったが昨日に引き続き、〈セロニアス・モンク・プレイズ・デューク・エリントン〉にした。聴きなれたメロディーが耳に心地よい。8曲目のキャラバンが終わったところでCDをチェンジして、〈バド・パウエルの芸術〉をトレーにのせた。4曲目の I SHOULD CARE から聴きはじめた。スタンダードに耳がなれていたからだが、正解だった。
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 〈 1947年のバドの初 リーダー・セッション8曲と1953年録音の8曲をカップリングしたアルバムで「モダン・ジャズ・ピアノのバイブル」と称される名盤。特にカーリー・ラッセル(b)&マックス・ローチ(ds)と組んだ47 年の演奏は、優美と哀愁、凄みや迫力も感じさせるバドの絶頂期のプレイであるだけでなく、モダン・ジャズにおけるピアノ奏法を初めて記した歴史的名演と称され、天才ぶりを遺憾なく発揮している、必聴。〉と紹介されているが、聴きこむと前期、後期のその差がはっきりとわかる。聴きながらハナウタを歌うわけでもなく、ジャズ喫茶の客のように身体を揺らすわけでもないのだが、日曜日の朝っぱらから自身のチョイスに満足した。

 夕方になり、明日からのパンを買いにいつものパン屋へいく。客で店内があふれかえっているが、なんだろうとカウンターの張り紙を見ると、本日はポイントが3倍ですと書いてあった。なるほど、今日は13日だが、3のつく日はいつものポイントが3倍なのだ。お客さんはよく知っているね。私も焼きたてのメロンパン、カレーパン、パンドミの6枚カットを買ってカードのポイントを押してもらった。さっそく家にもどり、飲み物を用意して熱々のカレーパンにかぶりつくと、おもわず顔がほろこんでしまう。メロンパンもおいしい。ええいッ、これを夕食にしようときめて、キッチンでプレーンなオムレツを卵3個をつかって焼いたものを追加する。おかげでお腹がいっぱいだ。


無人島で聴く一枚

 朝食をすませ、ひかりTVにチャンネルを切り替えたらエラーメッセージが表示された。多チャンネル放送の受信機能の故障だろうと、auのお客様センターに電話をした。指示通りの操作でなんとか元通りになったが、テレビをうごかしたりコードを移動したりして作業をしていたら部屋の模様替えをしたくなってしまった。前々からソファと53インチのテレビ画面との距離がチョイちかいと感じていたので、さいきん目がつかれるのはそのせいだとおもっていたのだ。AYなども、Tさんこれだと画面がちかすぎない?と指摘をしていたし。

 というわけで、天気のいい土曜日の今日は終日どこにもでかけずに部屋の模様替えに終始した。まず、カーペットを3枚ベランダにだして日にあててから、掃除もはじめた。こりゃ大ごとになったぞとおもいながら、すべての窓を開け放ち空気を入れ替えて掃除機をあて、雑巾で床の拭き掃除をはじめた。テレビをエッチラオッチラ移動して、絨毯の配置を変えてからソファの位置を決めて動かした。そこかしこに置いたままにしていた本やら雑誌やらも移動した。すべて終わってから移動のさいに目についた古い雑誌を手にとってぺらぺらしたら、プレイボーイ誌のジャズ特集やら、ポパイなどの記事に触発されてCDトレーに、〈セロニアス・モンク・ブレイズ・デューク・エリントン〉をのせた。

DSC07474 モンクのピアノが模様替えの終わった安ど感と相まって耳に心地よく響く。コーヒーを淹れた。いまでは廃刊してしまったが、プレイボーイ誌の2008年8月号のセロニアス・モンク×原寮でこう述べている。〈~そんなとき、駅前のレコード店にふらっと入った自分の目に飛び込んできた『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』というタイトルのLPレコード。「あのマイルス・デイヴィスがメジャー・レーベルのコロンビアから出した初めてのレコード」「その当時のLPジャケットはオリジナルとは違う国内仕様」なんていう知識もそのときは当然なかったが、一度聴いただけで私はそのレコードに心を奪われた。毎日そのレコード店に通って試聴させてもらい、一週間後には店員に「これ以上の試聴は困るので買ってくれ」といわれてしまった。

51B8NJQ-0dL__AA160_ 買ってからも、すり切れるくらい何度も聴き、今でもジャズのレコードなのに頭から最後までアドリブも一緒に歌える。貧欲に目の前にある"新しい"ジャズという音楽を吸収していただけで、ミュージシャンの名前などにまだ知識も興味もなかったが、タイトル曲の「ラウンド・ミッドナイト」を作曲したのがセロニアス・モンクだったというのは偶然だが幸運だったと思う〉と。そうか、そこまで夢中になったアルバムって私にはあるだろうか。などと考えながら二枚目のアルバム〈モンク/ストレート・ノーチェイサー〉に切り替えた。

 本、「世界最高のジャズ」(原田和典)のセロニアス・モンクの項に、〈モンクの曲は軽やかに触れられるその一片の音さえ、おろそかにしてはいなかった。考え抜かれ、厳選されたキーのみがロジカルな彼の曲の成り立ちに参列されることが許されていた。モンクの音楽が奇矯にみえて、その実、見事なまでに精緻に構築されていた。(セロニアス・モンクの鐘)〉と私が自分で書き込みをしている。北海道の時計台を見て、この小説を思いだしたことは2008年8月17日のブログにも書いたが、書き込みをしたことはすっかりと忘れている。

 好きなアルバムとの出会いは人それぞれだが、もし自分が無人島に一枚だけもっていけるとしたらなにを選ぶだろう?あれこれ考えたが、なかなかにむずかしい問題だぞこりゃ。選択には少々時間が必要だ。あなただったらどんなアルバムを選びますか?ところで、クリント・イーストウッドの制作、総指揮でDVD〈モンク/ストレート・ノーチェイサー〉がでているそうだ。ちかいうちに借りたい。


ヤブカンゾウ

 天気がいい。朝食後、泉自然公園へいこうとおもった。昼は途中のコンビニでおにぎりを買ってとおもったが、いやいや自分でつくってみたらどうだろう。そう考えて高菜漬けと梅干しのおにぎりをにぎった。コーヒーも飲みたいので、エピのガスストーブとコッフェルもバッグに入れた。いつもの公園のパーキングにとめないで、裏の農道に駐車した。やけに畑の菜の花が黄色く、それが春っぽくて心を浮立たせる。11時、車をおりたらウグイスが上手に鳴いた。

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 裏山から入って山道を数分歩けば下の池に着く。池には水鳥がのんびり群れている。いつもいるガチョウが近所の老夫婦だろうか、見つけるとエサをくれるのがわかっているのだろう、駆けよってくる。人間とガチョウの予定調和の行動が微笑ましい。私も池の周辺をのんびりと散策を始める。島の池ちかくに着くと、うしろから歩いてきたひとが「こんにちわ、いい気候になりましたね」と声をかけてきた。振り向くと手に双眼鏡をもっている。「ほんとですね、バードウオッチングですか」と微笑みながら私は応えた。

 60歳くらいだろうか、迷彩模様のフリースと濃緑色のカーゴパンツ、頭にはハンチングというまるでアウトドア雑誌から抜け出たかのようにカッコがいい。腰のベルトには野鳥図鑑とフィールドノート、双眼鏡をしまう皮のケースを下げていた。私たちはしばらく立ち話をした。目の前の池のふちに野鳥が飛んできたのでそのひとは双眼鏡をスッと目にあてて観察をした。野鳥の腹のところが薄黄色に見えたので「なんという鳥ですか」と私は訊いた。「アオジです」とにこやかに応えてくれたが、感じがいい。「この池の上と下には4組のカワセミが棲息しているのでよく見かけます」という。「へえ、ってことは8匹のカワセミがいるってことなんだ」と私はバカなかえしをした自分に呆れつつ、バードウオッチングってかなりカッコいい趣味ではないかと感心をした。少なくともパチンコのようなギャンブルや、金儲けのデイトレーダーなんかよりも聞こえがいい。

 ただし、野鳥はこちらの期待通りにでてきてくれないし、ジーッとしているわけでもないので観察には忍耐力とか、記憶力とか、体力が必要だ。でも、おかげでアオジという野鳥は覚えたぞ、忘れないようにしよう。池の周辺を観察するそのひととわかれて、桜の広場にむかった。野草園の広場にでた。イチリンソウとニリンソウが白い花を咲かせている。下の写真、左がイチリンソウで、右がニリンソウだ。イチリンソウの花のほうがやや大きくて、葉の切れこみも深い。

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 広場のソメイヨシノはほとんど散ってしまっていまは葉桜状態だが、しだれ桜のほうは見ごろを迎えている。園内はちらりほらりと花見の客も見かけるが、平日の自然公園は静かだ。風が吹くとはらはらと花びらが散って、私の顔に降りかかる。昼時を迎えてベンチでは食事をとるひとが目につく。そうだ、私もお腹が減った。さっそく、いつもの広場のベンチで湯をわかし、おにぎりをひろげた。うっかりとシェラカップを忘れてきたが、コッフェルのフタで代用する。自分でつくったおにぎりをパクつくが、めちゃくちゃおいしい。クセになりそうじゃないか。眼を下にむけると、足元のクローバーのじゅうたんにピンクの花びらが散ってシートなんか不要だ。

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 ゆっくりとした食事を終えてベンチに寝転んだ。青空を背景に桜色が眩しい。顔にハットをのせて、しばしシエスタとばかりに目を閉じた。聞こえてくるのは鳥の鳴き声と風の音だけで、満ち足りた食事のあとのうたた寝は私を桃源郷へ誘う。30分もそうしていたのだろうか、無粋な園内の放送が注意事項をつげたので眼をさましたが、満足な時間をすごしたと幸せな気分だった。しだれ桜、まだ見ごろですので土日にここにお出かけしてもオッケーですよ。

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 菖蒲田へおりる途中に咲いているムラサキケマン(左上)と、ニリンソウの群生(右上)。下は菖蒲田の土手に咲くかたくりの花の群生と池から橋を見上げた風景だが、カタクリの花はそろそろ見ごろはおしまい。カメラを抱えたオジサンはかたくりの花を撮りながら少々興奮気味に、「すごいなあ」と絶賛の声をあげていた。

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 さて泉自然公園から帰路の途中、先日のヤブカンゾウの谷津田に寄り道をした。今日は忘れないで小さなスコップとナイフをもってきたのだ。さっそく農道に車をとめて、田んぼの土手のいたるところに群生しているヤブカンゾウを採取する。ビニール袋ふたつにいっぱい詰め込んで家にもどった。キッチンできれいに水で洗い、塩を少々入れてぐらぐらと沸騰した湯にさっとくぐらせる。冷水にとってから食べやすいサイズに切って、茹でたアサリをくわえて酢味噌で和えたが、めちゃくちゃおいしい。緑黄色野菜の摂取にはもってこいだ。とはいえ、ものすごい量を茹でたのでしばらくはマヨネーズ和え、味噌汁の具、炒め物、おひたし、胡麻和えなどとヤブカンゾウのメニューが続きそうだ。冷凍保存もできそうなので、食べきれない分はしばらく冷凍庫に保存するつもりだ。

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