帰りの途中、桜の開花を見てみようとおもい、かずさの道の桜並木をチェック。8分咲きといったところだろうか、満開まで2,3日必要か。家にもどり、小学校の校庭の桜もチェックしたてみたが同様の咲きかげんだった。隣接する小さな公園の空き地では、野の花が可憐に咲いていた。
2014年03月
帰りの途中、桜の開花を見てみようとおもい、かずさの道の桜並木をチェック。8分咲きといったところだろうか、満開まで2,3日必要か。家にもどり、小学校の校庭の桜もチェックしたてみたが同様の咲きかげんだった。隣接する小さな公園の空き地では、野の花が可憐に咲いていた。
晴れたり、雨だったりのくりかえしの日々が続く。隣家との境で木蓮がきれいな花を咲かせて雨に濡れていたのでベランダにでてパチリと。たしか去年もおなじように写真に収めてブログにのせたと記憶する。朝はトーストにレタスとベーコンをはさんで、粒マスタードとマヨネーズをたっぷりとぬって食べた。昼は肉厚の木クラゲを入れた野菜炒めと味噌汁(豆腐、大根)がメニューだ。食後、コーヒーを淹れて我がジャズCDコレクションのなかからホーン奏者をメインに6枚をチョイスした。
最初に選んだのはコルトレーンの「BLUE TRAIN」だ。雨降りだものピアノがお似合いなんじゃないの、というかもしれないけど昨夜MとAYがそれぞれの子どもを連れてきて、お願いをされたのでしばらく(3時間)預かっていたのだ。そのさい、AYの娘がCDを聴きたいといってスピーカーのうえに置いてあった10枚のなかからビル・エバンスを選んでもってきた。あのネ、これは大人の音楽でDVDのように映像は見れないんだよ、といってもそれでもいいので聴きたいという。言いきかせてわかる年代ではないので、トレーにのせてスイッチをONした、というか「あーッ、それアーちゃんがやりたい」というのでハイハイと二度返事をして私は4歳の女児にステレオのボタンをONさせた。アルバム「Explorations」の最初の一曲目ISRAELが鳴りだした。それから私はKADOKAWAのムック本から女児に向けてこう解説してきかせた。
〈60年2月、エヴァンス・トリオはこのメンバー(スコット・ラファロb、ポール・モチアンd)による二作目のアルバム『エクスプロレイションズ』、そういままさに聴いているこのアルバムのことだからね、いい?彼らはこれを録音する。ラファロ愛用のベースが修理にでていて、しかもエヴァンスとラファロは音楽以外の理由で録音当日延々と言い争いをしていた、という最悪のコンディションだったにもかかわらず、ここでの演奏はきわめて繊細な美意識と緊張感を隅々まで漂わせた見事なものだ。「イスラエル」「ハウ・ディープ・イズ・ジ・オーシャン」のテーマ部分からエンディングまで持続する抑制されたリリシズム、(えっ、リリシズムがわからない?うーんつまり抒情性とでもいえばいいのか、自分の感情を詩的に表すこととでもいえばいいのかな。わかんない?だよね4歳だものね、まッ大きくなったらわかるよたぶん)いい?続けるよ、って明らかについてきてないなこりゃ。
そのまま無視して私はかってに解説を続けた。「ナルディス」での、まったく無駄のないラファロのベース・ソロの美しさ。朗々と鳴るいつものベースを使わなかったことや、メンバーの気分が必ずしも盛り上がっていなかったことが、これほどまでに内省的な演奏を彼らにさせた要因だったのだろうか。悪条件すらもがプラスに作用する、という、絶頂期の天才に特有の現象の現れとしてのこのアルバムは、結果としてこのトリオの繊細で内省的な側面を最も端的に表出した作品となった〉
もちろんだが、女児は数分(正確には10秒くらいだ)待たずに飽きてしまい自分で持ってきた風船をつくるおもちゃで遊びだしてしまった。CDをとめて、ひかりテレビのキッズチャンネルに合わせると二人はすぐに〈トム&ジェリー〉や〈どらえもん〉に夢中になった。途中、二人はふかふかの羊毛カーペットのうえでプロレスまがいの取っ組み合いなどをして大騒ぎだったが、概ねお行儀は良かった。きっと母親にTさんのところでは静かにしていること、わかった?などと言いきかせられてきたのだろう。
というわけで、ピアノというよりも(反動のせい?)今日はおもいきりコルトレーンのビリョビリョビリョーンが聴きたかったのだが、CD選んでいるうちに結局ホーン奏者をメインにしたアルバムばかり6枚をチョイスしていたというわけなのだ。ちなみに上左から、オーネット・コールマン「NEW YORK IS NOW」のアルバム。1曲目のラスト部分、苦吟するかのようにほとばしる魂の叫びにも似たホーンの音色は聴き終ると心が浄化される。上の真ん中のソニー・ロリンズ「SAXOPHONE COLOSSUS」は4曲目と5曲目のソロのパートがいい。ドラムはマックス・ローチだ。上右は今日最初にトレーにのせたジョン・コルトレーンの「BLUE TRAIN」だが、このアルバムの4曲目、〈I'M OLDFASHIONED〉が今日のような雨降りにはお似合いの繊細なバラードに感じて、うっとりとする。
下段の左からズート・シムズの「DOWN HOME+6/ZOOT SIMS」。このアルバム、どの曲も軽快なリズムに乗ったズートのテナーサックスが心地よいメロディを奏でる。ちかくに行ったときに立寄る四谷のジャズ喫茶〈いーぐる〉の後藤雅洋さんの「新ジャズの名演・名盤」には、このアルバムを〈ダニー・リッチモンドのエンヤトットノリのドラミングのせいもあるが、アメリカの田舎の盆踊り(そんなものあるわけないが)のテーマソングを聴くような、懐かしい気分になるアルバムだ。しかし、アップテンポの曲で見せる猛烈なスイング感は、「スインガー」と異名をとったズートだけのことはある〉と評している。さて、真ん中はなんとも可愛らしいジャケットの写真にひかれてチョイスしたスタン・ゲッツの、「STAN GETS PLAYS」だ。アルバム全曲中10曲がスタンダードだがなめらかにしてリリカル、何かの作業に熱中していても邪魔にならない。
ラストのアルバムはコルトレーンの「至上の愛」だが、このアルバムについて前出の本には〈『至上の愛』は、考えようによっては、コルトレーンのすべてが体現されている傑作なのだけど、何度も聴いていると、いささか押しつけがましさが気になってくることがある。どうしてそうなるのか考えてみると、どうやら、音楽と同時に聴こえてくる彼の内面の物語が、うっとうしく感じられるのだと思う。音楽はあくまで音楽の言葉で、これが僕のジャズを聴くときの基本姿勢だ。とは言うものの、近ごろの新人たちの腑抜け音楽を聴き続けていると、オマエら、コルトレーンの爪のアカでも煎じて飲め、と思わず叫びたくなるのはいったいどうしたことだろう〉と書いている。
雨に降られた日曜日の一日を終日ジャズ聴いてすごした。そとは暗くなったが、雨もやんだようだ。明日は月曜日だ、そろそろ顧客に電話連絡をして仕事モードに生活パターンを切り替えようと考えた。
鎌取駅前のクリニックでいつもの薬をもらいにいく。天気もよくて気持ちのいい土曜日だ。写真は帰り道に白い花が満開の街路樹。おもわず車のなかからパチリと。図書館に届いていた本、「中華幻想」(橋本雄)、「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか」(島田裕巳)を受けとる。ついでに書架にあった「学習まんが 西田幾多郎」(小学館・監修/西田幾多郎記念哲学館)を手にとってパラパラとページをめくるとなにやら面白そうだ。ついそのまま図書館の椅子にすわって読み始めてしまう。あっという間に読了するが、マンガゆえなのかじつにわかりやすい内容だ。あの「善の研究」の中身がスッと理解できるのが、まるで魔法のように感じた。
本の裏には西田幾多郎のことばとして、〈人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行なり〉とあった。それからこう続く、〈琵琶湖疏水へ続く川沿いの約1、8キロメートルの「哲学の道」は7、京都を訪れる観光客に人気のある道だ。この道は西田幾多郎が思索をしながら歩いたことから「思索の小径」と呼ばれるようになった。その道のなかほどにある歌碑に刻まれているこの歌は、昭和9年元旦に幾多郎が詠んだ。
軍事強国化の下で浮かれた世相から離れ、私は我が道を行くという思いが込められているが、これは彼の人生そのものを語る歌でもある。病気や実家の破産、学校との対立、さらには職を失うという不幸に加えて、度重なる家族の死というたえ難い不幸に見舞われながらも、しっかりとした足取りで哲学者としての道を歩いた。「哲学の動機は『驚き』ではなくて、深い人生の悲哀でなければならない」と幾多郎は書いている。自分を襲う不幸を糧にして歩む、誰の道でもない「吾が道」。
「思索の小径」は、幾多郎の弟子たちにも愛され、幾多郎が京都を去った後にも多くの哲学者がこの道で思索し、やがて「哲学の道」と呼ばれるようになった。ちょうど幾多郎が歩んだ「吾が道」が、その後の日本の哲学の礎となったように〉とあった。今ごろはこの桜並木も満開で、そぞろ歩く観光客たちで混雑していることだろう。幸運なことにこの満開の桜並木を私も歩いたことがある。疏水の流れ沿いに約500本の桜は川面をすべてピンクに染めて、それはそれは美しい風景だった。周辺には、銀閣寺、南禅寺など有名な寺院もあるので、またいつか再訪したい。
ところで、昨夜なにげなく合わせたチャンネルでみたテレビ〈金スマSP〉に登場した坂上忍とキムラ緑子さんがそれぞれ面白かつた。ブレイク中の坂上忍の意外な一面もそうだったが、キムラ緑子さんの出演していた〈ごちそうさん〉でみせる彼女の達者な演技に注目していたので、いままでのキャリアを知っておもわず納得をした。たんに私が知らなかっただけなのだが、先日の尾野真千子さんにせよ今回のキムラ緑子さんにせよけっこう日本の役者さんのなかにも発見がある。
最大の原因は運動不足だと頭では理解しているつもりなので、せめて散歩にでかけようとするのだがそれすら億劫に感じて、出不精が続いている。前立腺肥大が原因で夜中にしばしば起きるので、睡眠の質が変わってきているのだろう。新聞によると〈厚生労働省の「睡眠指針」が世代別の注意点と助言をまとめている。若者に「夜更かしは避けて」、勤労世代には「睡眠不足は仕事の能率を低下させる」、熟年世代は「寝床で過ごす時間が長くなると、かえって眠りが浅くなる」など。昔からいわれているように年をとると朝型化する。指針によると、10代前半までの睡眠時間は8時間以上、45歳は約6・5時間、65歳で6時間程度。時間の長短よりも、年齢に応じた自然な睡眠を心掛けたほうがよいという〉。
また、意識的に運動を心がけている人は年々増加傾向にあるようで、平成8年52%だった運動志向は平成22年には63%以上という。日常生活における歩数も増加して、70歳以上の平均は平成9年の5020歩から平成24年には約6300歩となっている。これは歩く時間にして約15分の増加だそうで、高齢化とともに健康志向の高まりを示している。そうだね、気候も暖かくなってきたことだし、そろそろ散歩かな、と背中を押されている気がした。
もっとも'98年流行語大賞にもなった「老人力」(赤瀬川原平)によれば、加齢による衰えをふつうは歳をとったとか、モーロクしたとか、あいつもだいぶボケたとかいうが、そういう言葉の代わりに、「あいつもかなり老人力がついてきたな」というふうに表現する。そうすると何だか、歳をとる=積極性と感じられて前向きな気持ちになる、と書いている。そもそも「老人力」の代表は、「忘却力」で、忘れるという能力は、幸せに暮らすためには必須にして不可欠だという。世の中には「忘れられなくて」不幸になっている人がたくさんいるけど、たしかに思いだしたくないことも人生には多い。この言葉が流行語になったころには充分老人の仲間入りをしていた私は、年下の連中に「くやしかったら忘れてみろ」、「老人力をつけてみろ」などと自身の老化現象をこれさいわいとばかりに正当化していたのを思いだす。あのころから10数年、いまでは老人力の免許皆伝、師範代といっても通用するかもしれない。
〈メンタリスト〉 〈ミステリー・イン・パラダイス〉
たしかにさいきんテレビをつけて、再放送しているシーズン1の「メンタリスト」や「ミステリー・イン・パラダイス」をみるとすっかり内容を忘れていて、初めてみたような気がして新鮮なのだ。グリコの二度おいしいどころではない。間をおいて再放送してもらえれば、毎回お気に入り番組をそのつどなんどでも楽しめる。これッ、明らかに老人力のメリットだとおもうのだが、どんなもんでしょう。もっとも、同日の午前と午後におなじものの再放送をそれぞれ初めてと思ってみるようになったら、それはそれでべつのヤバさを感じますが。
最初からハラハラドキドキさせるサスペンスタッチに引き込まれた。ニコラス・ケイジの出演作ならハズレはそうないだろうとおもってみたが、そのとおりだった。妻役のジャニュアリー・ジョーンズはエミー賞ドラマ「MAD MEN」で注目を集めた女優さんだ。主人公ジョン・ハムの妻役ベティで知られるが、じつに美しいひとだ。「MAD MEN」のほうはテーマの重さに途中でいやけがさしてHDDから消去したが、ベティがどんどん不幸になっていくのがみていられないというのも消去の理由だ。とくに今日のようなちょっぴり陰鬱で肌寒い日は、目の離せなくなるようなサスペンスか明るい恋愛ものがみたかったので、チョイス正解だった。ラストは安直に感じた結末だったが、ハッピーエンド(とりあえず!)なので文句はない。
私のようなキャベツ好きにはたまらない一品だ。アンチョビーソースはレシピとおりにつくったが、バーニャカウダのソースでも充分代用可能だとおもう。中学、高校と食べ盛りのころには夕食が待ち切れずに、よく自分でキャベツを炒めておやつ代わりに食べたものだ。味つけは塩、胡椒だけのシンプルなものだったが、ときには醤油やマヨネーズで食べたりもした。なのでキャベツ好きはいまに始まったことではない。今回はレシピとおりにオリーブオイルを使ったが、そのせいか上品に仕上って、ナイフとフォークがお似合いのひと皿になった。
午後、Mがアパートの押し入れに衣類を収納するためのハンガーをかけるスチールポールを取り付けたいというので、一緒にビバ・ホームへでかけた。ジャストサイズにカットしてもらい、取付金具と一緒に買った。取り付けに一汗かいたが、これで大量の衣類が収納できるとMは大喜びだった。家にもどると、なにやら眠気がおそってきたので、ソファでしばしシエスタとあいなる。身体の老化に自分の気持ちがまだついていけていないのを感じる。認めたくないのかもしれない。が、それなりに身体年齢は正直なんだと自覚せざるを得ない。
ちかいうちに花見に出かけようとおもう。
夕方、玄関のチャイムが鳴った。ちかくの交番からのお知らせとのことで警官の訪問だった。〈振り込め詐欺撲滅〉のチラシを手渡されたが、目的はそればかりではないだろう。管轄内の住民を知っておくことも交番の大事な仕事の一つでもあるのだから、ときどきの訪問はうける側にしても愛想をよくしておきたい。なので少し立ち話をした。千葉県内、とくにこの近辺でもこの手の詐欺は多くて、表(新聞記事とか)にでないケースも多いという。手口も進化していて、いくつかを教えてくれた。
いわく、「カバンをなくした」、「すぐにお金が必要」、「カードを預かる」、「銀行まで来てほしい」などといわれたら詐欺なのでダマされないようにとのことだった。自分にかぎって、などと私も伝えたがそういう人こそ注意してくださいという。もちろん、ダマされる気なんてまったくないが、用心にこしたことはない。ありがたく拝聴した。
居間にもどり、雑誌をながめた。ハワイを特集している。美しい海と山とを撮った航空写真が旅情を誘う。〈生命に溢れる島々は魅力を放ち、ますますたくさんの生命を惹きつけた。はるかな海洋の彼方から、星を頼りに波と風と知恵に運ばれて人々は島々にたどりつき渚に足跡をしるした。いつか島々には王たちが現れ、土地や生き物たちはそれぞれに名付けられ、火を噴き上げ続ける山々や大地に人々は創造の神々を思い、歌と踊りを捧げ、虹を見上げて日々のしあわせを祈った〉とあったが、またいってみたい。
上の写真は独特のグラフィック表現を交えた技法で強いハワイ女性を描く画家、ペギ・ホッパーの作品だ。10年前にこの作家を雑誌で紹介されていたのをみて、すっかり惚れてしまいハワイにあるザ・ペギ・ホッパー・ギャラリー(チャイナタウンの一角、ヌアヌアベニューにある)に行こうと翌年でかけたのだ。連れがいたので油断をしていたのがいけなかったのか、日程の最終日に訪れたときは休廊していた。まッ次のときに行けばいいかなと、かるい気持ちですごしたがなんとその次がこないままときが過ぎてしまった。ちょうど10回目のハワイだった。結局、今ごろになってリビングの壁面にもう一枚絵が欲しいとさいきん考えていたらペギ・ホッパーの明るい色調を思いだしたというわけなのだ。
もちろん、ポスターでいっこうに構わない。サイズと額装にはこだわりがあるので、実物を目にして決めたいのだ。ギャラリーのHPでの購入もアリなのだが、サイズ43in×31inはない。実際にハワイに行って決めるのがいちばん素敵なのだが・・・などととめどなく頭のなかを絵柄とハワイの景色が交錯してしまう。
洗濯機から洗濯物をとりだして干した。ふと、ベランダの窓から私のデスクをのぞいてみた。PCのキーボード打ちながら眼をあげればベランダが見えるいつものデスクだ。その窓にかかっているレースのカーテンの下の部分がガラスの結露のために黒くカビているのが目についた。まえから気にはなっていたのだが、どうやって落としていいかわからないでそのままにしておいたのだ。PCあけて〈レースのカーテン〉と打ち込んでみた。すると、〈レースのカーテン カビ〉という表示をみつけた。ふむふむ、カビキラーが効くとの書き込みが多い。さっそくカーテンを外し、風呂場に持ち込んでカビキラーを汚れた部分に吹きかけた。ズックを洗うたわしがあったので、それもつかってかるくごしごしとこすってみた。なんとウソみたいにきれいになったではないか。ごらんのとおりで結果に満足した。
昼ころにMから電話があり、友達のKEから軽トラを借りたので冷蔵庫と残りの荷物は手伝いに来てもらった人たちでなんとか間にあいそうなのでとの連絡だった。昼過ぎに図書館へいき、リクエストしておいた本、「モノローグ」(平野啓一郎)を受けとった。ついでに新聞を読んだら、千葉日報の書評に「辞書になった男 ケンボー先生と山田先生」(佐々木健一)が紹介されていてなにやら面白そうだ。三省堂の国語辞典「新明解」を編さんし、天才と呼ばれた国語学者の見坊豪紀さんと、「反骨精神」あふれる山田忠雄さんご両人の訣別のいきさつについて書かれている。アマゾンにはこう紹介されている。
〈一冊の辞書(『明解国語辞典』)をともに作ってきた二人はなぜ決別したのか?なぜ一冊の辞書が二つ(『三省堂国語辞典』『新明解国語辞典』)に分かれたのか?―昭和辞書史最大の謎がいま、解き明かされる。NHKで放映された傑作ノンフィクション(ATP賞最優秀賞)〉。そうか、放送されたんだったらNHKのオンデマンドで視てみたい。図書館のHPをチェックすると10人以上がリクエストしているようで、しばらく手許には届きそうもない。だいぶまえに読んだ本、「新解さんの謎」(赤瀬川原平)はこの辞書のユニークさに着目した本だ。話題になったので読まれたかたも多いだろう。
私も20年以上、机上において愛用している辞書(第三版)なのだが、表紙のページをめくるとM社の社判が押してある。木更津支店とあるので、私が社費で買ってそのままもってきてしまったものにちがいない。なにがユニークなのか、「新解さんの謎」のなかからいくつかの例をご紹介する。
【恋愛】→特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら、それが、常にかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。
ばか【馬〈鹿】記憶力・理解力の鈍さが常識を超える様子。また、そうとしか言いようの無い人。〔人をののしる時に最も普通に使うが、公の席で使うと刺激が強過ぎることが有る。また、身近な存在に対して親しみを込めて使うことも有る。例、あの―《=あいつ》が・―《女性語で、相手に甘える時の言い方》
ぶりぶり→腹立たしさが、その荒々しい態度や口ぶりからありありとうかがわれることを表す。「庄吾は―しながら、ひょいと下を見ると、さっきの犬が、ちょこんと、彼の足もとにうずくまっていた」
くされ【腐れ】〔イネ・ハクサイなどが〕病害で腐ったような状態になること。またその物。(造語)けいべつすべき・存在(もの)に冠する語。「―金・―儒者・―女」
ほんの数例を書きだしてみたが、最後の例でくされ女というのもおもわず吹き出してしまう。この―女ッなどと罵倒したことなど私にはないが(笑)。辞書なんてオカタイ読みもので必要なときいがいは開きもしないが、WEBの検索とはひと味ちがってこの「新明解 国語辞典」はたのしめる読みものになっている。気の向くままページをめくっているだけでも、つい読み込んでしまってあっという間に時間が経ってしまう。
昼はやまといもをすりおろして、鰹節からとっただしとよく混ぜてとろろごはんにした。新ごぼうがおいしそうだったので、醤油漬けにしてあまった分は瓶にいれて常備菜にした。つくり方は、〈新ごぼう一本をよく洗い、皮付きのまま5㎝長さに切り、さらに縦4等分に割る。鍋に醤油、酒各大さじ2を合わせて一煮立ちさせ(アルコール分をとばす)、そのまま冷やす。漬け汁が冷めたら新ごぼうをくわえ、30分漬ける〉。これ、二三本をサーモンや薄切りにして塩もみしたカブで巻いてもおいしい。上の向付に入れたのは牛肉の時雨煮だ。佃煮のようにこってりと煮詰めた。手前の小皿は昨夜食べたセロリの残った葉っぱの部分を細かく刻んで醤油、砂糖、酒、みりんで炒めたものだ。さっぱりとしてヘルシーな昼食だった。
3時ころ、Mの引っ越しを手伝う。こんな場合に我がハイエースは大いに活躍する。過去にも知り合いの引っ越しをやまほど手伝っているので、手慣れたものだ。とはいえ、そのころとはちがって私も歳をとってきた。Tさん、ムリしないように少しずつでいいからね、とMがいうとおりムリしないように段ボール箱やダイニングテーブルを解体してゆっくりと車に積み込んだ。暖かい一日でうっすらと汗をかいた。新居のアパートとは直線にしたら1キロと離れていない至近距離だ。結局今日は半分だけ運んで、残りは明日彼氏が手伝にきてからにすることにした。冷蔵庫は軽トラを5000円でレンタルして彼氏と運ぶというので、その他の荷物をハイエースが明日も活躍することになりそうだ。
私はポケットから文庫本をだしてページを開いたが、なんの本だかはわからない。コーヒーを一口呑んだが、やけに粉っぽい味がした。店内には彼女しかいない。どうやら彼女がここの店主らしかったが、父親だろうか年老いた老人が狭い階段から両手に大きな荷物を抱えてよろけるように、しかしゆっくりと顔をみせた。これから階段を上るところなのか、降りるところなのかわからない。そうか、二階は住居になっているのか、だったら店が混んだ場合はそこに客席を作っておけばもっと収容できるじゃないかと、いかにもの経営者目線でながめた。とはいえ、店内の照明がくらくて本の活字がよく見えない。私は本とコーヒーのカップを両手にもって、そとのテラス席に移動しようと小保方さんに断ってから立ちあがった。
開けっ放しのドアから明るいテラス席にむかったが、どういうわけか席にはすわらずにすぐ前の路地の通りにでた。本から目を離さないようにして細い路地を10メートルくだると、また小さな半地下のカフェがあったのでコンクリートのむき出しの階段を降りて店内にはいった。オーダーをとりに来た女性の顔はよくわからなかったが、エスプレッソを注文した。できればイリーがいいのだけれど、あるのかなとおもって顔をあげてから自分をみた。片手に文庫本、片手に前の店のコーヒーカップをもったままだった。中身がまだ3分の2ほど残っている。あれッ、もってきちゃった、とおもわず周囲を見渡したところで眼が覚めた。夢だった。忘れるといけないとおもいその場でメモした。
閑話休題
さて、春分の日の今日は天気がいい。図書館で本、「木暮荘物語」(三浦しをん)を借りてきた。書架をながめていたらこの本が目についたからだ。小田急線のなつかしい駅名がでている。元妻と結婚する前に彼女が住んでいたアパートがあった場所だ。風呂なしの6畳一間のボロアパートだったが、小説のなかにでてくる木暮荘に、場所といい佇まいといいなにやら近いものを感じて興味を引かれたからだ。〈小田急線の世田谷代田駅は、いつもどこかのどかなムードだ。朝のラッシュの時間帯にも、ホームはそれほど混みあわない。各駅に乗ったまま新宿まで行っても、十五分弱だ。住んでいる場所によっては、井の頭線の新代田駅まで歩くひともいるし、気分を変えるために少し早起きして、下北沢まで歩くこともできる。利便性の高さと選択肢の多様さが、駅を利用する住民の態度に余裕をもたらしている。〉と著者は描写している。アマゾンではこの本の概要を次のように紹介しているが、以下にコピペする。
〈小田急線・世田谷代田駅から徒歩五分、築ウン十年、安普請極まりない全六室のぼろアパート・木暮荘。現在の住人は四人。一階には、死ぬ前のセックスを果たすために恋を求める老大家・木暮と、ある事情から刹那的な恋にのめり込む女子大生・光子。二階には、光子の日常を覗くことに生き甲斐を見いだすサラリーマン・神崎と、3年前に突然姿を消した恋人を想いながらも半年前に別の男性からの愛を受け入れた繭。その周りには、夫の浮気に悩む花屋の女主人・佐伯や、かつて犯した罪にとらわれつづけるトリマー・美禰、繭を見守る謎の美女・ニジコたちが。一見平穏に見える木暮荘の日常。しかし、一旦「愛」を求めたとき、それぞれが抱える懊悩が痛烈な哀しみとしてにじみ出す。それを和らげ、癒すのは、安普請であるがゆえに感じられる人のぬくもりと、ぼろアパートだからこそ生まれる他人との繋がりだった……。〉
ところで、朝の残りのパンくずをベランダの手すり部分に乗せておいた。夕方になってふと見ると、鳩がもどってきている、一瞬そう思ったがよく見たら鳩ではなくてヒヨドリだった。二匹いたが、パンくずは食べてしまったのか手すりのうえから消えていた。元妻の世田谷代田のアパートでもヒヨドリはよくみかけたが、なつかしい。さっき、いつものパン屋で5枚カットのパンドミを買ってきたが、鳥のえさにするにはもったいないほどおいしい焼きたてパンなのだ。なので、こんなときのために棄てないでおいた別のパンくずを手すりに置こうかなと考えている。
松本紀保さん(松たか子のお姉ちゃんネ)のブログのなかの〈勧進帳とはどんなお話?〉を読んだせいもあるかもしれない。あるいは老境なればこその心境かもしれない。いままでめったに足など向けなかった歌舞伎に興味を持ち始めたのはいかなる変化か。まだ幼かった頃、伯母と母親に連れられて1、2回歌舞伎見物に行ったことは憶えているが、途中で飽きてしまいロビーにだされて遊んでいたことなどを思いだした。だよね、子どもにわかるわけがないものね。それでも大人になってから一幕見席を何回かのぞいたことはあったので、勝手は知っているつもりだ。なにかの雑誌で歌舞伎座関係者のかたが、〈リニューアルした幕見席もエレベーターをつけ、観劇環境もこんなに豪華でいいの?と感じていただけるようにしました。ここにこだわったのは、歌舞伎ファンの多くが幕見席からスタートするから。映画料金程度で気軽に歌舞伎をご覧いただき、「病みつきになってしまった」と思っていただけたら本望です〉といっていたのにも興味をひかれた。週末の混雑は避けたいので、次回銀座への用事を思いついたときに立寄りたい。
ところで昨夜、9時ころにMから電話があり、ちかくに引っ越すのでついてはいまからその部屋に行ってバルサンを焚きたいのだけれどいっしょにつきあってくれる?とのことだった。まだ空き家状態の部屋にひとりでいくのが怖いのだという。現在のアパートと同じ部屋のタイプだが、2DKで家賃はいまより2万円ほど節約できるという。去年、AYが借りた部屋のある棟とは隣り合わせのアパートだ。子どものいる、バツ一同志がなかよくいっしょにつかず離れずの暮らしをおくるには格好の住まいかもしれない。
隣接する建物もない、見晴らしのいい角部屋だ。ハウスクリーニングがまだなので、変なところが神経質のMにとって、荷物を運び込む前に各部屋に(といったってすべてあわせて3部屋なのだが)バルサンを焚いて準備しておきたいのだろう。バルサンってなんだか久しぶりだが、健在だったんだね。畳にもダニアースをひと吹きして、バルサンを焚いて夜の作業は終了。今月中には越す予定なので、手伝う予定だ。
春一番の基準は地域で若干違うが、立春から春分までの間に日本海で低気圧が発達して南寄りの強い風が吹き気温が上がった初めの日を目安としているという。中国でも同じような気象現象がみられることを「眩坊」(松本清張)を読んで知った。清張さんはこのなかで唐への留学僧、玄昉、阿倍仲麻呂、吉備真備、井真成らの在唐した717年、早春の長安をこう美しく描写する。
〈寒さがゆるむころになると長安の都市ぜんたいが黄色い霞に包まれる。外郭四方と内郭皇城の城壁をせまく割って立つ二十五の城門に乗る楼も、進昌坊にある大慈恩寺の大雁塔も、高官邸の高屋根も、この黄霧の底で近いところから濃淡の影になって浮いている。もっともそれら城門のうち各坊の街路から見えるのは十七門であって、あとの八門は皇城と大極宮、掖庭宮、大明宮といった宮廷の大廈と森にかくれて見ることはできないのだが、その皇城・宮廷建築の影も上の半分はぼやけて消えいっている。昼間の太陽も没する。
黄疸をわずらった病人が夢見心地でみるような黄色一色の靉靆たる風景は、九街の住民にとっては一年じゅうでいちばん難儀な季節である。まず屋根瓦の上は黄土の粉が積み上げられ、軒廂といわず、窓の桟といわず、出入口の戸といわず、黄粉を厚くまぶしたようになる。宮殿、大官邸、冨商邸、寺院などには使用人がたくさんいるからよいが、一般の民家の女たちは朔北からの風が黄塵を運ぶのを止めるまで掃除の地獄に陥る。
二月に入ると、きまって紅色とも黄色ともつかない砂塵が東北から天を蔽ってやってくる。しかし、こうした色の塵が訪れるのは春の告知でもあるので、迷惑ななかでもどこか人々の心をなごませる。そういうこともあってか、紗で濾したようなこまかい黄粉の降る中をものともせず、貴族の夫人は犢車に乗って他出し、貴公子は仲間と馬首を揃え鞭を振って朱雀の大路を明徳門のほうへ駆け去る。門外を南に行けば道は二つに岐れるが、滻水に沿って少領原に行くもよし、斗門鎮の街道を子午谷に入るのもよい。こう天日が黄色に濁っていては鷹狩りも騎射もできないが、これはやがて山野に鳥獣の群れてくるのに備えた騎馬の練習なのであろう。けれども、いずれもきびしい冬に室内に長く閉じ込められていたのが黄塵による早春の通知に我慢できずに戸外にとび出したといったほうが実際である。〉
ところで、この強風のせいで我がベランダの鳩がどうしているかとのぞいてみた。マンションの間を抜けるビル風にちかい強風がどうやら鳩の巣を直撃しているようすだ。鳩が卵を守るために塀から振り落とされないように必死なようすが見てとれた。午後、硝子戸にかかるレースのカーテン越しにのぞいてみたら、塀の上はあとかたもなく吹き飛ばされたようで、きれいさっぱりなにも残っていなかった。強風の吹荒れるなか、ポツンと途方に暮れたかのように佇んでいた鳩の姿が哀れだった。それでも一時間ほど巣のあったちかくで鳩は逡巡していたようだが、やがて姿が見えなくなった。私はベランダにでて卵を探したが、隣家にでも吹き飛ばされたのか、見つからなかった。自然のなかで生きる野生の暮らしの厳しさを見せつけられた気がした。
家にもどって、映画を一本。2009年公開の「愛する人」をチョイスした。この映画、事前の知識はまったくなかったのだが、みているうちに画面に引き込まれてしまった。実力派の役者たちが顔をそろえているが、出演者全員の役柄が難しい役どころで納得する。しかも一人一人が付き合ったらじつにめんどくさいと思わせる人たちばかりだ。仕事を除けば、メンドーなことはできうるかぎり避けてきた私のような人間からみると、真逆な人生を登場人物の皆さんは選択する。
物語は、頑なに閉ざされていた心の殻が、新しい命の誕生や身近な人の死に立ち会うことで徐々にこじ開けられ、それまで拒絶していた周囲の温かさを受け入れていくという内容だ。人間は生きるという現実で、生・老・病・死の四つと愛別離苦・求不得苦の四苦を避けて通るわけにはいかない。その四苦八苦のなかで生きていかざるを得ない人生なのだ。この重くなりそうなテーマを、ロドリゴ・ガルシア監督は抑制の効いた演出で丁寧に描写していく。
メイン・キャラは3人。14歳で生んだ娘を養子に出したカレン(アネット・ベニング)と、親の顔も名前も知らずに育ったエリザベス(ナオミ・ワッツ)。そして2人の間を思いがけない形で繋ぐことになるルーシー(ケリー・ワシントン)だ。最初、何の関係もないように見えた3人の物語は、母と子の絆の喪失という基本テーマが現れるにつれ、次第にひとつに織り上げられていく。家族も恋人も友人も拒絶しているエリザベスが、隣家の主人を誘惑してその幸せな家庭を壊そうとするところは、拒絶の裏にある家族への羨望を感じさせて恐ろしいまでだ。私など失って困るものなどなにもないので、この手の誘惑にはすぐにのってしまいそうだが。
カレンの家の家政婦や職場の同僚、エリザベスが出会う盲目の少女やルーシーの母親など、3人を囲む人々の生活振りもそれぞれ地に足がついていて気持が穏やかになる。心を閉ざしたままなら気がつかないが、私たちのそばには必ず愛情豊かな人がいる。その人たちが放つ暖かい光に気がつきさえすれば、人間は変わることができる。哀しみの後でそんな希望を抱かせてくれる。育児中の女性にも、これからの女性にも、あるいは産もうかどうしようか迷っている女性にもおすすめの映画だ。
あるところに一人の少年がいた
風変わりで 人を引きつけずにはいられない
噂では とてもとても遠いところを
旅して来たのだという
陸を越え 海を越え
彼は恥ずかしがり屋で
いつも悲しい目をしていたが
優れた知性を備えていた
そしてある日のこと
魔法の日が訪れ 僕らはめぐり合った
二人はいつもでも飽きることなく語り続けた
愚か者について 王様たちについて
彼はふと僕にこう言った
「人生においていちばん大事なことはね
人を愛し 人から愛し返されることなんだ
それを僕らは学ばなくちゃいけない」
さて、二本目はメグ・ライアンお得意のハートフル・コメディの映画、「明日の私に着がえたら」(2008年)だ。裕福なニューヨーカーのメアリー(メグ・ライアン)は、ファッション誌の編集長をしているシルヴィア(アネット・ベニング)をはじめとする女友達にも恵まれ、順風満帆の生活を送っていた。しかし、夫がデパートの店員・クリスタル(エヴァ・メンデス)と浮気をしていることを知り、彼女の幸せな結婚生活は一変する。夫の浮気というトラブルと同時に、親友のシルヴィアとの友情や、娘との関係も試されることになるメアリー。メアリーは幸せな生活を取り戻すことができるのか…?という内容。
1939年公開の女性映画、〈THE WOMEN〉のリメイク版だが、ベッド・ミドラー、キャンディス・バーゲンなど豪華女優陣の競演でたのしめた。たびたび登場するマンハッタンの有名デパート、サックス・フィクスアベニューはさしあたり日本だったら日本橋の老舗デパート、三越にちかい存在。1981年に初めてここを訪れたときはほとんど窓のない、やけに暗いスクエアな印象をうけたが、映画のなかのデパートは明るく豪華だ。窓が少ないのはイザヤ・ペンダサンではないが欧米の洞窟文化によるものだとレクチャーを受けての訪問だったので、なるほどと納得をしたものだった。
夕方、NHKのBSプレミアムで〈ザ・タイガース2013Live in 東京ドーム〉を放送していた。おもわずなつかしさに観入ってしまった。ジュリーは身体が重そうだったが、加橋かつみがデザインしたというマオカラーのスーツ、いいね。会場内の中高年の盛り上がりも若いモンにまだまだ負けていないパワーを感じた。1960年代後半だからね、グループサウンズの王者と呼ばれたザ・タイガースが一世を風靡したのは。あれから50年以上たっているのに会場内総立ちで、歌のフリも当時そのままでって、青春の輝きに充ちていたステージと観客に圧倒された。
天気のいい土曜日、Mの子どもをつれていつもの公園へでかける。池の鯉にエサをやったり、田んぼのなかにカエルが生みつけたたまごを見つけたり、ときどき見かける白鷺をながめたりしてすごした。梅の花も満開で、カメラをかまえてシャッターのポジションを決めているオジサンや、散策中の中年カップルもかなりみかけた。早春の季節をたのしんでいるのだ。2時間をすごして子どもをアパートにおくりとどけた。帰り道でスーパーによった。4歳の子どものペースでの散歩はすこし物足りない気分だったのか、私は買い物をすませて久しぶりに市原市の瀬又に車をむけた。ポカポカとした春めいた陽気に、自分のペースで歩きたくなって森にむかった。
5分も走らせれば明るい森の入り口に着く。車を農道に止めてカメラ片手に歩きだした。農家の庭さきは満開の梅の花が早くも散って、あたりをピンク色に染めている。遠くで野鳥の鳴く声がするだけの静かな森の道をいくと、土は柔らかくしっとりと湿っていた。木々の枝にはみっしりと開花をまつ蕾がいまかいまかと待ちかまえているかのようだ。澄んだ空にぼうっと浮かぶ雲。そして淡く煙る梅の花弁の集合体。風が吹くと、かすかに色づいた雪のように、花びらが舞う。眼を草むらに投げやると、日だまりのなかに瑠璃色に輝く小さなオオイヌノフグリがまるで宝石を散らかしたかのようにそこかしこに群生している。うーん、野山はもう春真っ盛りじゃないか。
〈山路来て何やらゆかし菫草〉(松尾芭蕉)
道端に薄紫色のスミレが咲いていた。日本には約60種が自生をしているそうで、変種も数十種とあるので詳しい名前は特定できないが、「身近な雑草の愉快な生きかた」(稲垣栄洋)によると、どうやら可憐な姿からは想像もつかないしたたかな生き方をしているようだ。本を読むと、なんでもスミレの種子には「エライオソーム」というゼリー状の物質が付着していて、これがアリの好物だという。お菓子の〈おまけ〉のような役割を果たしているようで、子どもたちが〈おまけ〉欲しさにお菓子を衝動買いしてしまうように、アリもまたエライオソームをエサとするために種子を自分の巣に持ち帰るのだそうだ。このアリの行動によってスミレの種子は遠くへ運ばれることになる。
アリがエライオソームを食べ終わると、種子が残る。種子はアリにとっては食べられないゴミなので、巣のそとへ捨ててしまうのだが、これでスミレの種子はみごとに散布されることになる。スミレは花にも驚くべき秘密がある。スミレの花をよく見ると、花を長くして後ろへ突き出た形になっている。この突き出ているのが「距」と呼ばれる部分で、距は蜜の容れ物になっている。茎は前方の花の部分と後方の距の真ん中についていて、やじろべえのようにバランスをとっている。花を長くするために、中央でバランスをとるような構造になっているのだ。そうまでして花を長くしたのには理由がある。花にはさまざまな虫が訪れる。花粉を運んでくれる虫もいれば、花粉を運ばずに蜜だけを盗んでいく虫もいる。スミレは玉石混合の虫のなかから、真に花粉を運んでくれるパートナーを選びださなければならない。そのために長い花をつくりあげたのだそうだ。カシコイ。
昼をだいぶ過ぎていた。スーパーで買った弁当を車のなかでひろげてすまそうと考えたが、森の散歩に満足したので、家にもどった。食事をすませてから、映画を一本みた。「幸せの始まりは」、2010年公開のリース・ウィザースプーンのロマンチック・コメディだが、脱力系のラブコメはみていてたのしい。登場するインテリアも素敵で、参考になる。オーウエン・ウィルソンの部屋にあった赤いストライプのあの円いクッションソファ、名前が思いだせないが欲しい。
しばらくすれば、めっきり春めいてきて桜が開花して華やかな季節が到来する。私が生まれてくるまえからも、そして死んだあとも毎年かならずくり返される四季の移り変わりの姿だ。そして私も相変わらず桜の開花を求めてちかくの公園で花見をするだろう、去年もそうしたように。5月になれば、「国際バラとガーデニングショー」が開催されて(メールが届いていた)しばし逡巡ののち、きっと私はでかけることだろう。花に狂乱するのはなにも日本人だけではない。バラだったらイギリス人、フランス人もそうかもしれない、それともアネモネやポピーと答えるだろうか。オランダはチューリップか。アメリカ人はどんな花が人気なんだろう。
中国人だったら牡丹だろうか。白楽天は「牡丹芳」のなかで、〈花開花落二十日、一城之人皆若狂〉(花が開き、花が散る、その二十日の日々。町中は狂乱の渦に巻き込まれる)と詠っているし、中国史上唯一の女帝、則天武后がこの花を愛したことでも有名だ。うん、はやく春になればいいのに、と思う。
大正七年の五月、二十代の著者は唐招提寺・薬師寺・法隆寺・中宮寺など奈良付近の寺々に遊び、その印象を情熱をこめて書きとめた。鋭く繊細な直観、自由な想像力の飛翔、東西両文化にわたる該博な知識が一体となった美の世界を感受性豊かに表現されている。翌年、著者30歳のときに出版。昭和21年の改版の序文で、著者自身が友人とともに奈良付近の古寺を見物したときの印象記である、と書いているが一読、あたかもその場に立ち会ったかのような臨場感をもって感動が伝えられる。ほんの一例をあげると、著者は聖林寺十一面観音の前に立ちその感動をこう表現する。
〈きれの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、――すべてわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、また超人を現わす特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさとが現わされている。薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、人の心と運命とを見とおす観自在の眼である。豊かに結ばれた唇には、刀刃の堅きを段々に壊り、風涛洪水の暴力を和やかに鎮むる無限の力強さがある。円く肉づいた頬は、肉感性の幸福を暗示するどころか、人間の淫慾を抑滅し尽くそうとするほどに気高い。これらの相好が黒漆の地に浮かんだほのかな金色に輝いているところを見ると、われわれは否応なしに感じさせられる、確かにこれは観音の顔であって、人の顔ではない。
この顔をうけて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かさない。それはあらわな肌が黒と金に輝いているためばかりではない。肉付けは豊満でありながら、肥満の感じを与えない。四肢のしなやかさは柔らかい衣の襞にも腕や手の円さにも充分現わされていながら、しかもその底に強剛な意力のひらめきを持っている。ことにこの重々しかるべき五体は、重力の法則を超越するかのようにいかにも軽やかな、浮現せるごとき趣を見せている。これらのことがすべて気高さの印象の素因なのである。〉と。しかしこれはほんの一部で、その前後に数ページにわたり仏像の由来の推測をふくめ、全体への印象を書きつづっている。
また、法華寺の本尊十一面観音が光明皇后をモデルとした伝説にふれ、その推理を展開しているが驚愕の博識ぶりに愕いてしまう。大正期の青年はかくも豊かな学識と、柔軟な見識とに充ちた人間だったのかと。この本、名著の名に恥じない、何度も読み返してその感動をともにしたいおススメ本だ。
ショッピングはしなかったが、久しぶりだったので、なかをぶらっと散策してみた。リリーポンドガーデンにでて、池の周囲をぐるりと歩く。ひと足早く、河津桜が満開だ。おもわずデジをとりだしてパチリと。ちょうどそのとき、TDLの園内を走る側面にミッキーマウスのマークをつけた電車が走っていくのがみえた(クリックして拡大するとマークが見えます、ってだから何なんだといってしまえばそれまでのことですけど)。よほどのことがなければゲートをくぐることはない、などといったが園外からなかの様子がうかがえてチョイ気持ちが華やぐ。
用事がすんで帰ろうかと思ったが、ふとシネコンのスケジュールを見てみた。すると私の好きなあのフランスの名匠フランソワ・オゾン監督の最新作「17歳」を上映しているではないか。さいきんでは録画HDDやレンタルビデオで自宅のテレビで映画を観ることが多いので、たまには映画館のスクリーンで映画を見る楽しみを堪能したいではないか。上映時間までカフェですごしてから、チケットをかって入館した。観客は私を含めて10人ほどだが、男性客は私と同年代とおぼしきオヤジ一人で、あとはほぼアラサーといった女性客ばかりだった。しかし、映画館で映画を観るという醍醐味は、同じ映画を選択した観客とともにスクリーンに集中できる喜びでもある。
解説にこうある。〈『スイミング・プール』などのフランソワ・オゾン監督が、少女から大人へと変化を遂げる17歳の女子高生の心理とセクシュアリティーをあぶり出す青春ドラマ。不特定多数の男と性交を重ねる名門高校に通う美しい女子高生。ある事件をきっかけにその問題行動が発覚、行動の裏にある少女でも大人でもない17歳の女性の揺れ動く気持ちを描き出す。主演は、モデル出身のマリーヌ・ヴァクト。『輝ける女たち』などのジェラルディーヌ・ペラスや『まぼろし』などのシャーロット・ランプリングが共演。オゾン監督らしい繊細で鋭い心理描写に心を揺さぶられる。〉
17歳になったばかりの主人公イザベルは、感情と肉体とのバランスが崩れたみずみずしい肢体を、惜しげもなく初対面の男にさらしていく。「援助交際」というくくりでは捉えられない彼女の心の深層に切り込む。ある日、イザベルを気に入ってくれていつも呼んでくれた初老男のジョルジュが腹上死。イザベルは現場から立ち去るが、警察の捜査が及び、家族に売春がばれる。退屈な青春をもてあます大人びた裸体と未熟な思考、感情を表にださない少女と女性が共存する難しい年ごろをイザベル役のヴァクトは体当たりで演じる。地下鉄から密会ホテルへ向うエスカレーターは大人への階段であり、子どもからの脱皮への道筋をしめしているかのようだ。
平凡な日常を破る刹那的快楽こそ、媚薬であるというもろさ。歪んだ感情を昇華することが、大人への通過儀礼なのだ。映画のすべての場面で私は過去の自分と重なりあってしまう。そのせいで、冒頭の部分から違和感なく登場人物すべての一人一人とスクリーン上の同化を体験し、入り込んだ。ラストちかく、ジョルジュの妻、シャーロット・ランプリングとイザベルがホテルでの出会いの場面だけだ、微かな違和感を感じたのは。それさえ、同性愛者のオゾン監督ならではの解釈なんだろうかと、必死で忖度したがやがて腑に落ちた。私がジョルジュだったらこういう結末を望んだだろうからだ。映画館でみてよかった、とつくづく思った。