2013年10月

一気観

 仕事を終えたAYがやってきたのが、昨日の3時半だった。先日30歳になったばかりの彼女だが、久しぶりにゆっくりとくつろいだ気分でおしゃべりに花が咲いた。もっとも私はほとんど聞き役で、主な話の内容は心理学でいうところの彼女の自己開示だった。3歳になる娘の話、再開した父親との関係、母親が自分では打てなくなったインシュリン注射を代わって定時に打ってやらなくてはならない苦労とか、別れた夫との確執などについてだった。話し方によればいくらでも暗く、重くなってしまう内容にもかかわらず、AYのおしゃべりな話ぶりで聞くとなにやら軽やかに聞こえるから不思議だ。きっと彼女のもって生まれた性格によるものなんだろう。

 さて、今日だが予定していた仕事が明日に変更になったので所在なく米テレビドラマ(ミステりーチャンネル)で録画しておいたトップ・オブ・ザ・レイク~消えた少女~という作品(7話連続)をみて過ごした。

トップ・オブ・ザ・レイク~消えた少女~


 HPによると〈映画、「ピアノ・レッスン」のジェーン・カンピオンと、映画「英国王のスピーチ」の製作陣がタッグを組んだ英国BBCの最新意欲作!12歳の妊娠した少女失踪をきっかけに、美しい湖畔の街に隠された恐るべき事実が明らかになる! 〉とあったが、退屈はしなかったかわりにハラハラドキドキもすることなく観終わってしまった。主役のロビンを演じたエリザベス・モスは米ドラマ、「マッドメン」のなかでむずかしいクセのある秘書役(ペギー・オルセン)を演じていたのを記憶していたが、今回のような複雑な過去を背景にもった役柄も上手に演じていたのが印象的だった。たぶん、彼女の演技にひかれて全7回分を一気観してしまった気がする。

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白秋

 昨日の行き帰りの電車のなかでの読書に選んだのは、「白秋」(伊集院静)だった。アマゾンのHPでは内容をこう紹介している。〈花を活けに屋敷を訪れる文枝に、生れて初めて恋をした真也。病床に伏す身ながら心をときめかせる真也に、長年看護をしてきた志津は妬心の炎を燃やす。狂気の行動に出る志津。真也と文枝は御堂のなかで遂に愛し合うが…。鎌倉を舞台に男女三人の揺れ動く心模様を見事に描いた、伊集院ワールドの傑作恋愛小説〉

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 夏目雅子がなくなってから7年後の1992年発表の作品なのでいまから20年以上も前の作品だ。現代にこんな世界が存在しているのか?と読んでいて思ってしまうが、文章は美しく、描かれている光景も鎌倉ならではの雰囲気がたっぷりなので充分愉しめる。こんな具合だ。

 〈すきとおった月が鎌倉山の稜線に蒼く浮かんでいた。細い紫の雲が南風に乗って、月に薄墨を引くように流れて行く。

 
 海風に変わった・・・。
 真也は東の庭の一間幅の広い縁側にたたずんで、屏風絵のように浮かぶ春のおぼろ月と、やわらかな雲の重なるさまを眺めて、つぶやいた。

 
 ほの白い真也の横顔を春の終わりの月明りが、やさしく照らし出していた。
 黒く豊かな眉と一重で切れ長の目が天上を見つめたまま哀しく揺れていた。藍の結城紬の襟元からのぞいた横笛のような細い真也の鎖骨が、何かをつぶやくたびに影を作って浮きあがった。
 

 息苦しい夜が続いていた。
 真也は目を閉じた。そしてまぶたの裏にちいさな人影を見つめて、つぶやきはじめた。
 -私はあなたを待っているのだ。他の誰でもなく、あなただけを待っているのだ。なのに、あなたは私の前にあらわれようとしない。この古都に住むようになって、もう一年と半歳が過ぎてしまった。この土地が私のすさんだ気持ちをなごませ、おだやかにしてくれたのに、私はまたひどい不安に襲われている。
 

 この春先から、少しずつあなたが私にむかって近づいているのがわかる。あなたの存在を、たしかに感じているのだ。なのにあなたは私の目の前にあらわれてくれない。あなたはもう私のすぐそばまで・・・、この屋敷のそばまで来ているように思う。なのに近寄ると遠のいてしまうおぼろな気配が私を悩ませる。しかしあなたの存在はたしかに真実だと私にはわかる。今夜もこの月を、この風を、あなたもどこかで見つめている気がして仕方がない。
 

 これが恋の予感なのか、恋情というものなのか。この不安が恋愛の助走としたら、何千年ものいにしえから、恋をした男はこのじれったさに耐えて、皆が皆、くるおしい夜を送ってきたのか・・・。

 
 庭の梢がかすかに音を立てて揺れた。
 真也はその音にさえ、子供のように背筋を震わせた。誰かがそこに立っている気がする。目をやるとさわさわとたわむ菖蒲葉が、東の庭を蛇行して流れる稲瀬川の水面に黒く映っていた。普段はとまったままの池の水が、数日続いた春雨に、ゆっくりとしたせせらぎをつくっている。鏡のように動かない水面は、それでも囁くように流れている。
 

 ヒュルルルーと鳶が鳴くような音色が、海の方から聞えた。たぶん夜漁の船笛の音だろう。白子船だろうか・・・、音色は夜の海岸から鎌倉山に木霊して、余韻を残しながら風にまぎれて行く。〉

 この作家の小説作品は最近読み始めた。まだ「乳房」、「なぎさホテル」、「美の旅人」の3冊しか読んでいない。今回の、「白秋」で4作目になるが、少しずつ読みこんでいきたいなと感じている。

 PS: 今日、図書館へリクエストしたら「阿部公房とわたし」(山口果林)へのリクエストが113人とでた。市内の在庫は7冊なので一冊平均約16人待ちという事になるので、私に順番が回ってくるにはまだだいぶ先になりそうだが、それにしてもすごい人気だね。アマゾンの内容紹介によると、

 〈「君は、僕の足もとを照らしてくれる光なんだ――」
その作家は、夫人と別居して女優との生活を選んだ。没後20年、初めて明かされる文豪の「愛と死」。師であり、伴侶。23歳年上の安部公房と出会ったのは、18歳のときだった。そして1993年1月、ノーベル賞候補の文学者は、女優の自宅で倒れ、還らぬ人となった。二人の愛は、なぜ秘められなければならなかったのか? すべてを明かす手記。

【目次】
プロローグ
第一章 安部公房との出会い
第二章 女優と作家
第三章 女優になるまで
第四章 安部公房との暮らし
第五章 癌告知、そして
第六章 没後の生活
エピローグ

【本文より】
玄関に脱ぎ捨てられた見なれぬ靴と杖。部屋に灯りがついている。寝室に人の気配。そこには暖房を目いっぱい高くして、羽毛布団にくるまった安部公房がいた。去年のクリスマス・イブ以来の再会だった。
「ホテルまで探しにいったのよ」
「こんなに早く、ここへ帰ってこられるとは思わなかった」
「ここまでのタクシー代は持っていたの?」
「ポケットの小銭を渡して、まだ足りなくてゴソゴソやっていたら、運転手、諦めてドアを閉めて行っちゃった」
「マンションの表玄関の暗証番号、よく覚えていたね」
「玄関前でうろうろしていたら、顔見知りの住人が開けてくれた」
一月の夜の寒空の中、しばらく佇んでいたらしい。
安部公房が、ぽつりと言った。
「新田くんが結婚させてくれるって」〉

 とあったが、有名人の私生活を覗いてみたいという興味本位がこれだけ多くのリクエスト動機なんだろうか、それとも不倫に直面している自身への 参考にでもなればという動機なのだろうか、よくわからない。買うまでもないからという動機も多そうだが、私なんかもまさにそのとおりで、チョイとしたミーハー的関心から読んでみたいという気になっている。ましてやこれだけの人気なら、なおさらだ。不倫、ブームだしね。

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54回古書祭り

 そうだ、ゴミをださなくてはと前日玄関に用意していた生ゴミの袋をもって集積所へいった。すると、ゴミ収集車はすでに行ってしまったあとだった。しかたなくまたゴミ袋を持ち帰ったが、8時までにゴミはだしておく決まりなので15分オーバーした私のミスだ。

 あまりに天気がいいので、そとに出かけたい。神田の第54回古書祭りが開催されているはずなので、秋の一日古書の物色についやすのも楽しそうだ、と考えてバスの時刻表をみた。10時17分と記憶して目の前のバス停にむかった。バス停で待っているとどこからかオバサンがやってきて、「バス来ますか?」と私に訊く。ええもうすぐ来るはずですよ、と答えると続けて、「鎌取駅までバス代っていくらですか?」と訊く。私もなんども乗っているにもかかわらず運賃がいくらなのかはっきり覚えていない。オバサンは「200円用意していれば大丈夫ね」と財布から小銭をだして用意をしている。ところが17分を過ぎてもバスは来ない。おかしいなと思い、バス停の時刻表をみると、なんと17分ではなくて39分になっている。どうやら私が間違えたらしい。オバサンにそう伝えると、オバサンは駅まで歩いていくわといいつつ誉田駅方面にむかって歩き始めた。私?22分待ってからバスにのった。運賃は160円だった。

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 地下鉄の神保町に昼前についた。靖国通りにはいつものように古書の露店が列をなしている。さっそく、ウキウキ気分で本の物色に集中する。昼はなにを食べようか?と1時ちかくになってから思いたち、古書センターの2Fのカレーの名店、〈ボンディ〉でビーフカレー(中辛)1450円をチョイス。ライスにはチーズがトッピングしてあって、茹でたポテトもついてくる。ひと口スプーンで口に運ぶと想像以上においしい。これは私のCoCo壱越えレベルだ。

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 さて、美味しいカレーのあとは続けて古書漁りに精をだす。そのためにバックパックをしょってきたのだ。夕方5時過ぎまでじつにゆっくりとした古書との時間を過ごしたが、結局購入したのは「歴史発見1~3」(NHK歴史発見取材班)と「歴史のなかの日本と朝鮮」(10人の共著)の4冊。できるだけ本買い込まないようにと注意しているが、現在興味のある分野にはチョイと気を許してしまう。もっとも物色の最中に気になる本の数点はチェックしておいたが、以下のとおり。

 「老猿」(藤田宣永)
 「斑鳩王の慟哭」(黒岩重吾)
 「あなたはまだ何も知らない」(ムザウィルジーニ)
 「安部公房とわたし」(山口果林)
 「サガン」(永田千奈)
 「男の読書術」(大岡玲)
 「日本の起源」(東島誠)

 などだが、目についたものだけ書きだしてみた。もっとたくさん読みたい本はある。帰りは三越デパートによって明日のパンを買って帰るつもりだ。

10時間

 昨日、母親の食事会のため、町田へいった。ホームの用意してくれたいつものレストランで母親と弟たちと和やかなときを過ごした。食事が終わり、ホームへ帰る母親と別れて、末弟の家と同一敷地内の母親の家に移動する。久しぶりの兄弟3人で会話もはずむ。父親と母親の想い出話などに花が咲いたが、私の知らないこと、忘れていたことなどが次々と話の端々にでてきて、チョイとしたおどろきだった。

 夕食は末弟たち夫婦がお気に入りの近所の食堂から、義妹が運んでくれた揚げたてのトンカツ弁当にした。夕食をはさんでおしゃべりは尽きない。末弟のチョイとしたカミングアウト、次弟がみせたチョイとした偏屈さなど、なかなか興味深かった。時計を見ると10時半になっていた。10時間ずーっと3人でしゃべりっぱなしだったが、もちろん初めてのことだ。町田駅まで次弟の車で送ってもらい、電車に飛び乗ったが、東京駅発の総武快速千葉行きの最終にどうにか間にあった。ところが、千葉駅についてみると、これより先の電車運行は終了していていますとアナウンスがある。時計の針は真夜中を過ぎていた。どうしよう、小雨も降っているし元妻に電話して泊めてもらうのもチョイ気が引ける(っていうか、虫がよすぎる)。結局、タクシーで帰ったが、2時過ぎの就眠となった次第。

西田幾多郎

 過去に録画しておいた番組をみて、メモに起こした。近いうちに鎌倉の建長寺を訪れたいのでそのときの参考までに以下に転記します。番組は、【西田幾多郎 近代を超えて〈日本人はなにを考えてきたのか 第11回〉130120 NHK 出演:福岡伸行】というものだが、結構なボリュウムなので興味のある方だけどうぞ。


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「昔からの哲学は未だもっとも深いもっとも広い立場にたっていない。それを掴みたい、そういう立場からものを見、ものを考えたい。それが私の目的です」西田幾多郎


 昭和の初め、長引く不況の中、政局は混迷し、軍部が台頭していく。満州事変から太平洋戦争へと日本が歩んだ時代、哲学者たちは戦争とどのように向き合ったのか。西洋の思想を乗り越えた日本独自の哲学を生みだした西田幾多郎とその弟子、京都学派。東西の思想のはざまで格闘した西田の遍歴をたどる。

 圧倒的な力が支配した時代、哲学者はなにを考え、なにを為したのか。哲学とは何かを突きとめ、西洋のものではない日本独自の哲学をはぐくんだ西田幾多郎と京都学派をたどる。

 西田幾多郎は、明治3年(1870)に生まれる。石川県河北市の西田が通った小学校には校門をくぐると大きく壁に、無(む)と書いてあるが、これは西田の求めた根本哲学だ。生涯をかけて日本独自の哲学を打ち立てたが、この下には数多の論文と20冊を超える哲学書があった。代表作「善の研究」が刊行されたのは明治末(1911)のことで、最初の本だった。〈この書をとくに「善の研究」と名付けたわけは、人生の問題が中心であり、終結であると考えた故である〉と書いている。

明治19年、学生だった西田は自由民権運動に目覚め、極めて進歩的な思想を抱いたという。しかし薩長藩閥政府は自由民権運動を弾圧、中央集権化を推し進めていく。学校は第四高等中学校となり、薩摩出身の学校長に代わる。規則ずくめになった校風に反抗し、西田は学校を退学する。それでも学問の道はあきらめず、翌年東京帝国大学へ入学(明治241891)して哲学を学ぶが選科生(聴講生にちかい立場)だったので、差別的な待遇を経験する。

明治維新から20年余り、西田をとりまく環境にどう感じたのだろうか?京大近くのカフェ〈進々堂〉の店内で、思想家浅田彰さんがいう。「世の中がひっくりかえっているわけだから、封建主義から一気に自由化する可能性もあった。そこで自由民権運動なんかがすごく盛り上がったりした。好きに活動できると思っていたら、あっという間にあれよあれよという間に体制が固まっていっちゃって、上から憲法もでき、大学制度もできて自分の居場所がなくなってしまったという、ある意味自由の幻想を最大限に謳歌しつつ、ふとみると現実に置き去りにされた世代と言える。

そこで自分は何者か、どう考えていったらいいのか。東と西のあいだでどこに価値をおけばいいのか、っていうゼロのところから考えると、どこにも属さない例外的な位置にたてたともいえるし、はみだしちゃったともいえる」と。

故郷に帰り、教職に就き、学校を転々。裕福だった実家も父の事業の失敗で破産。妻とは離縁を強いられた。さらに姉、弟の死に続き幼い娘二人を病気で失う。のちに長男も亡くす。西田は浜辺にでて心をしずめたという。悲しみ、悩みが自身の思想の糧となっていく。

「哲学の動機は〈驚き〉ではなくして、深い人生の悲哀でなければならない。(無の自覚的限定)私は人生問題というものが哲学の問題の一つではなく、むしろ哲学そのものの問題であるとすら思うのである。行為的自己の悩み、そこに哲学の真の動機があるのである」

世俗的な苦悩からの脱出を求めていた西田が打ち込んだのが禅だった。高校の同級生で生涯の友となる鈴木大拙の影響もあった。「禅は音楽なり、禅は美術なり、禅は運動なり、これのほか心の慰謝を求むべきなし」(日記明治38年)

20代後半から10年余り徹底的に修行した。西田の孫弟子、哲学者で宗教者の上田閑照さんはいう。「東洋の伝統、とくに西田が若いときからずっと修行した道は座禅で、なにもしないでじっとしていることで、自分と外との仕切りが溶けてきて、かぎりないひらけを経験する。西田は円相図好んだ。円は中に空をもっている。そのなかから学問を始めようと思ったにちがいない。西田は東洋と西洋の哲学をどのようにして自分のものとしたのか?勉強と座禅をした。

西田が目指したのは、それまでの主観と客観の対立から出発する西洋哲学を乗り越えることだった。たとえば私がリンゴを見る場合、伝統的な西洋哲学では私がこの世界のそとからリンゴを客観的に観察しているように考える。つまり私=主観と、リンゴ=客観をわけて考える。主客二元論である。二元論では対象と人間をわけて考えるため、どうしても人間中心に考えるため、すべてが人間中心にあるというドグマに陥ちいりやすい。こうした認識で物事を捉えるのは不十分であると西田は考えた。

そして主観と客観がわかれる一歩手前から出発した。それが純粋経験だ。善の研究は主観へのこだわりを捨てよとうったえる文章から始まる。「純粋経験、経験するというのは事実そのままに知るの意である。まったく自己の細工を棄てて、事実に従って知るのである。純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験したとき、いまだ主もなく客もない知識とその対象とがまったく合一している、これが経験の最醇なるものである」

 純粋経験とはたとえばリンゴの赤い色をみたとき、この赤はリンゴの赤とか、私がいてリンゴをみているとかいう思慮分別が加わる以前の意識状態があるというのだ。私と赤が一体であるようにこの状態が純粋経験と西田は呼び、それこそがあらゆるものの根源にあるとした。

「善の研究」を発表した直後、時代は大正に変わり、普通選挙制などの政治の民主化を求める国民の声が高まっていく。いわゆる大正デモクラシーだ。このころ(大正2年)西田は京都帝国大学の哲学担当の教授になる。18年にわたって教鞭をとるなかで、三木清、西谷けいじなど多くの哲学者を育てていく。

「善の研究」で説いた純粋経験の概念だけではすべてを説明しきれていないのではないか、そう考えた西田は7年の年月をかけて新たな概念をつくりあげる。それが「自覚」だ。大正61917)年、47歳のときに表した「自覚における直観と反省」で直接的な経験と直観、思慮分別を反省と呼び、直観と反省が連続して起こる意識のあり方を自覚と名付けた。

〈心理学の図と地〉

壺を見れば壺が実体、別を見れば二人組に見える。その連続が西田のいう自覚なんだと思った。一瞬紙になにが描いてあるかわからない、その瞬間を西田は純粋経験と呼んでいた、そこら先が自覚だ。

上田先生は西田の概念、自覚を理解するのに重要な特性を教えてくれた。「純粋経験そのものの自己展開、それが自覚というかたちをとる。たとえば、この場所に私がいて、私が自覚するというとき、西田の場合は自覚を私が私を自覚するというところにとめるわけじゃない。とめない、そこが画期的だ。簡単にいうと、世界の動きになるということ」

そうか、自覚とは無限のくりかえしなのだと気づいた。経験が反省を生み、反省が新たな経験になる。「自覚においては自己が自己の作用を対象としてこれを反省すると共に、かく反省するということが直に自己発展の作用である。かくして無限にすすむのである」

福岡伸行は、「西欧的に思うと、我思う故に我ありみたいな認識する主体とそして認識される客体というものがあって、そこから物事が出発する。西田はそうではなくて、それよりも以前の段階があるんじゃないか、つまり主と客がある種の相互作用をしていて分かれる前の状態があって、決して神秘的なものでもなければ渾沌でもない。しかし、そこにはやはり構造や仕組みがあって、そこからものを考えようとしたのではないだろうか」

円相図

「心月孤円光呑万象」(しんげつえんひかりばんぞうをのむ)西田哲学を表徴する図。心を月にたとえ、円のなかに無限があってすべて呑み込んでいる。

昭和12年、日中戦争勃発。13年、西田講演→日本文化の問題(新書版)

東西の文化の違いを求め、日本文化の行く末を問い直そうとしていた。

現実の構造と自己の意識の双方から考えようとしていた。

「矛盾的自己同一」(西田にとっての重要なキーワード)

矛盾は矛盾のまま、対立は対立のまま、しかも全体として同一性を保っている、というありかたをいう。

生物は多と一との矛盾的自己同一。生物とは多くの細胞と一つの身体が同時に同一に存在する。生命のあり方と実際の世界のあり方を示している。

日本文化の問題で西田の関心は歴史哲学へとむかっていく。「歴史的世界は矛盾的自己同一として、どこまでも種と種とが相対立し、相争う闘争の世界である。」

近衛が1937年に首相に指名されると、リアルポリティックスを意識した。西田としても親しい近衛とのパイプ、そのラインを使いながらご時世に対して、自分の意見を反映できないかと考えた。

このころ思想言論の取り締まりが強化されていた。京都帝国大学でも滝川事件などの弾圧事件などが起きていた。「日本文化の問題」(昭和15年)のなかで、「最も戒むべきは日本を主体化、帝国主義化をすること」日本もこのまま進むと、帝国主義的戦争をやることになってしまう。かといってそれをはっきり軍部にむかって「あなたたちのやっていることは帝国主義だ」とはいえない。ここれがこの時期の西田のスタンスだった。近衛首相は東亜新秩序など新しいスローガンを掲げていく。その陰には政策に影響を与えているブレーントラスト(昭和研究会)の存在があった。このメンバーの中心的存在が西田の弟子、三木清だった(当時は煉瓦つくりだった現在の新国際ビルで会合は行われていた)。三木はここで欧米の近代文明を超える理想を打ちだそうと研究会をリードする。

そして研究会は「新日本の思想原理」を世に問う。そのなかで展開したのが東亜共同体論だった。「今日必要なことは、東亜の新秩序の建設といふ日本の使命の立場から日本文化の伝統を反省するといふことである。しかもこの新秩序の建設には新文化の創造が必要なのであって、日本主義は単なる復古主義であることを許されない」

戦争の時代にどのような形で三木は恩師西田の哲学を発展させたのか?「西田哲学は形に表すという点で弱さがある。三木の言葉で言うと、どこか心境的なところがあって、そこにとどまってしまう。悟りをひらくというか、確信を得るということではいいかもしれないが具体的な歴史となって社会を動かしていくという要素に弱点があると三木は気がついて、西田哲学を忠実に受け継ぎつつそれに形を与えようとした思想家だった」

三木がドイツで学んだ歴史哲学の教えを受けたのが世界的なマルティン・ハイデッガーであった。全体主義を推し進めようとするナチス・ドイツに賛同するようになる。

近衛内閣は国家総動員法を制定。国民を戦争に動員する体制を整える言論も全体主義的な主張が主流となっていく。西田はそんな時代に懐疑の念を抱いていた。そのころのNHKの放送番組に出演した西田は、〈対話「創造」昭和1537日〉のなかで、「全体主義ということは、今日の人のいっておるのは非常に概念があいまいであって、個人の創造を否定するという意味の全体主義だ。全体主義という人は個人主義を否定しておる。個人主義ということがわるいと考える。そこで個人主義と全体主義というものがどういうところでお互いに結びつかなければならぬかという意味がわかっておらんということだ」

そんな西田に海軍の調査課長、高木惣吉が接触を図る。海軍は陸軍の先制で戦争がすすめられていくなか、民間知識人を動員した独自のブレーンづくりを考えていた。その中心が高木だった。高木は西田に続いて接触を図ったのが、その弟子の京都学派だった。

昭和161941)年12月、太平洋戦争開戦。大島メモ(秘密会合の内容)によるとそのころ、共栄圏ということをどう合理的に考えていくかということを話し合っていた。当時、日本は大東亜共栄圏の建設を目的として戦っていた。東条英機首相はここに共存共栄の秩序を確立しようとしていた。しかし、東南アジアから南太平洋まで広大な地域を占領した日本軍は軍政をしいていた。

秘密会合に出席していたのは、京都学派の西谷啓治、高坂正顕、高山岩男、鈴木成高を中心とした西田直系の弟子たちだった。京都の円山公園にある料亭、「左阿彌」で頻繁に会合は開かれていた。大東亜共栄圏をどのように理論づけるか、第一回目の会合では日本が盟主であることと、他の国と共栄していくことの矛盾がテーマだった。「盟主」と「共栄」という二つの一見矛盾する概念をいかにして結びつけるか。

「なぜ日本が盟主であるかという事は歴史から出てくる。日本の世界史的必然性よりする歴史的使命を明確に意識し、それを理論的に把握して歴史を確立することが我々の重要な課題でなければならぬ」←いかにも屁理屈、口実つくり、子どもだましとわかるが当時はこんな程度の理論で世間が納得したのだろうかと私には不思議な気持ちがする。

9回の会合に参加した西田のあとをついだ京都帝国大学の哲学教授だった田辺元は、共栄圏についてこう語っている。「下のものの自主性をたててやり、主権を認めてゆきながら、これを共栄圏といふ大いなるものにおいて統合することが大切なのである」ってなんじゃこれっ、こんな理論で理解できるわけないじゃないのと思うが、当時の識者は不思議と感じなかったのだろうか。

協同と支配である。相補うように円環を廻れば共存できるではないか、と円を描いて説明している。雑誌「文学界」に特集された(昭和17910月号)「近代の超克」は西欧文明に象徴される近代をのりこえることが必要というテーマについて語り合われた。出席者のなかには、亀井勝一郎、林房雄、三好達治、鈴木成高、中村光夫、小林秀夫、河上徹太郎の名前が見える。

「近代の超克」は若者層を中心にむさぼり読まれ、知識人の流行語となった。高山光男はこうのべている。「世界の哲学」(昭和17年)「今日の世界大戦は決して近代内部の戦争ではなく、近代世界の次元を超出し、近代とは異なる時期を画そうという戦争である」と。ライプチヒ大学教授の小林敏明さんはいう。「なぜ日本が東アジアのなかでそれだけのイニシアティブをとれるのか、その理屈だけでは済まない。中国の人はどう受け止めるか、モンゴルの人はどう考えるか、インドの人はどう考えるだろうか、朝鮮半島の人はどう考えるかという視点が一切ない。ただ単に軍部が進出している、それを前提にしかじゃべっていない。つまりまったく他者の眼が欠けている、この一点において批判されるべき。彼らは現実に起こってくる、めまぐるしく起こっている戦争状態を、不満を持ちながらも後追いしてしまった。ここが決定的に大きな批判点だと思う」と。

では西田はこのころ、どう考えていたのだろう。石川県西田幾多郎記念哲学館に保存されていた、東条英機の演説にとりいれられることを期待して綴った「世界新秩序の原理」と称した論文がある。その要旨をしたためた手紙に(宛先は佐藤軍務局長)共栄圏のビジョンに対する「要領理解の参考に供する」として「各国家民族が、各自の世界的使命を自覚して、地域伝統に従って一つの特殊的世界を構成せなければならない。これが共栄圏の原理である。その中心となって之を担うものがなければならない。東洋においては今日、それは我日本のほかにはない」と書いている。

これを読むと、「オイオイ西田お前もか」、と叫びたくなってしまう。担うものは日本っていう主体的かかわりについては反対であったのではないか?ギモンと不信感でいっぱいになる。

京都帝国大学を退職後、鎌倉の海が見える稲村ケ崎に居を構えていた西田は昭和2067日、日本敗戦の2か月前にこの世を去った。享年75歳。晩年の西田が遺した言葉、「古来武力のみにて栄えた国はありませぬ。永遠に栄える国は立派な道徳と文化とが、根柢とならねばなりませぬ。我国民いまや実に此の根柢から大転換をやらねばならぬときではないでしょうか」

番組の終盤、レポーターの福岡伸行さんがいった。「西田のビジョンからいうと、ある種の関係性のなかで生命を捉えなければいけないと書いている。これは古くて新しい意見で、生命というのはその部品ひとつひとつが、絶え間のない分解と合成のさなかにあって、どんどん壊されていて、どんどんつくられているわけで、合成と分解という一見矛盾することが同時に起きている。つまり矛盾的自己同一がそこで起きているわけで、絶え間なく壊しているからつくられる。たえまなく壊されることによって空白(ボイド)ができるわけで、そこで新しいものがそれを補完するようにつくられる。その繰り返しとして生命体があるというっていう、これを私は動的平衡と呼んでいるのですが、生命のあり方として関係性と同時性とそれを構成する要素との間の不断の連続性によって生命が成り立っている。そういう事が描かれている。これから生命をどのように捉えなければいけないかという事を明確に明示していると感じた」。

また、西田哲学のアジアの人たちの受け止めについて?藤田正晴(京都大学大学院教授)さんは「中国や台湾の思想家たちも一方で西欧近代というものに直面して西欧近代を受容しつつ、他方伝統的な思想を活かして新しい哲学をつくっていくという試みをした人たちがいた。そういう人たちの試みと、西田幾多郎と京都学派の哲学者たちと比較することでそれぞれの長所、あるいは短所、限界などが見えてくるのではないか。そういう意識があって京都学派の哲学に対してとても熱い視線が韓国や中国、台湾、香港からむけられていて、東アジアのなかで対話がなされて、新しい哲学の展開というものがなされていくのではないかと考えています」

上田閑照さんがいう。「なんとなくはっきりしないことでも、こうだと決めていくことによって、学問は成立していくし、その学問を基礎にして、実践とか政策とかになるわけだけれども、哲学はその逆ですよね、決められたこと、決まったように見えること、それはすべてではない、もっと別のことがあるぞ、その外がるというそのセンス、それが非常に大事だと思います」と。

己とは何か?世界とは何かを生涯といつづけた哲学者西田幾多郎のことばです。「私の書いたものが、なにもならないものかもしれない。あるいは後の何人かの立場となるものかもしれない。私には唯、私の途を進みゆくの他ないのです」(書簡・昭和11年)

この番組、過去に「善の研究」を手に数ページをパラパラとしただけでギブアップした私にとっての哲学の問題が、西田幾多郎という哲学者の軌跡を追うというビジュアル的にもわかりやすい形で説明されていてとても楽しめた。


本を見つけるには

 いつだったか恵比寿のアトレのなかにある書店、〈有潾堂〉で本を物色していたときのこと。俵万智さんの歌集「チョコレート革命」の出版記念とかいうので、著者のサイン会が開かれていた。刊行当時流行語にもなった〈サラダ記念日〉も読んでいた私はおもわず手にした「チョコレート革命」をもって著者のサインをもらった。サインをもらう際、たまたまその日が私の誕生日だったのでその旨を告げると、万智さんはあのびっくり目をさらに大きくしてこっくりと小さくうなずいた。そのときのサイン本はどういうわけか手許にないのだが、今日図書館へリクエストしておいた本、「明日の友を数えれば」(常盤新平)を受けとりにいった際になに気なくのぞいた書架に「チョコレート革命」を見つけてなつかしさについ、一緒に借りてきた。奥付けをみると初版発行が1997年5月8日になっている。翌月の6月19日に24刷発行とあるからものすごく売れたんだね。

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 雨降りの一日、借りてきた二冊のうち「チョコレート革命」のページをひらいた。もちろん、以前読んでいたのだが、ひさしぶりにこうして一首づつ読みすすめていくと、紡がれた歌に反応して自分の過ぎし日の出会いの喜び、結びつくまでの小さな感動、つきあう過程でのあれやこれや、そして別れの哀惜などがあふれる如く躍り出てきて尽きることのない愉しみを感じた。小説のように作者の描く恋物語を読みすすめるのではない、著者の歌によって反応した自分自身の感性で紡ぎだすいくつかの複合した恋物語に新鮮な感動を感じる。数首書き出してみます、感性と想像力を駆使してご自分の恋物語を自由に創作して愉しんでください。

 眠りつつ髪をまさぐる指やさし夢のなかでも私を抱くの

 日曜はお父さんしている君のため晴れてもいいよ三月の空

 チョコレートとろけるように抱きあいぬサウナの小部屋に肌を重ねて

 梅雨寒や抱かれ心地のシャツ借りてしばし続きを読むミステリー

 カラスミのパスタ淫らにブルネロディモンタルチーノで口説かれている

 愛することが追いつめることになってゆくバスルームから星が見えるよ

 逢うたびに抱かれなくてもいいように一緒に暮らしてみたい七月

 水蜜桃の汁吸うごとく愛されて前世も我は女と思う

 誰かさんの次に愛され一人より寂しい二人の夜と思えり

 「泣くなよ」と言われて気づく今我が泣いているのは「わたし」のためと

 もう二度と来ないと思う君の部屋 腐らせないでねミルク、玉ねぎ

 はじまりと思いたいけどおしまいとなるかもしれぬ夜を抱かれる

 枕辺に寄せては返す虫の声ここそこあそこどこそこあそこ

 もう会わぬと決めてしまえば楽しくて明日の天気の話などする

 やがて来るピリオド思い背泳ぎで見送っている夜の飛行機

 ウルワトゥの岬にゆらゆら落ちてゆく線香花火の最後のように

 抱きあわず語りあかせる夜ありてこれもやさしき情事と思う

 「二人とも愛しているんだ」腕ずもうのように勝負がつけばいいのに

 男ではなく大人の返事する君にチョコレート革命起こす

 水田の向こうに千曲川「若草」という名の部屋に二夜眠りぬ

 家族にはアルバムがあるということのだからなんなのと言えない重み

 開館を待ちて並べるオルセーに我ら連れ去る汽車あらわれよ

 さてどうでした、感性と想像力で自分物語の創作、愉しめましたか?本のあとがきで万智さんはこういっている。〈つまりそういうことで、確かに「ほんとう」と言えるのは、私の心が感じたという部分に限られる。その「ほんとう」を伝えるための「うそ」は、とことんつく。短歌は、事実(できごと)を記す日記ではなく、真実(こころ)を届ける手紙でありたい〉と。

 もう一冊読んだ。「明日の友を数えれば」(常盤新平)だが、リクエストした理由を忘れている。読みすすめるうちに、いろいろな雑誌などに書いたエッセイ集なので見知った文もあるのだが著者おすすめの本などもでてくるので、以下にメモとして書き留めておく。

 「人情馬鹿物語」、「古都憂愁」(川口松太郎)
 「良寛」(吉野秀雄)
 「妙高の秋」、「桐の花」、「清流譜」、「奈良飛鳥園」、「奈良登大路町」(島村利正)
 「ゼルブの欺瞞」、「朗読者」(ベルンハルト・シュリンク)
 「秘剣やませみ」、「深山の梅」(伊藤桂一)
 「真吾の恋人」(古山高麗雄)
 「オールド・ミスター・フラッド」(常盤新平)これはご自身の翻訳。

 こうしておけば、なにかのおりに図書館へのリクエストの参考になるので。


書店にて

 昼過ぎに仕事を終えて顧客宅を辞するが、会話の端々で顧客が口にした、「さいきん食欲がなくて」という元気のないことばにチョイ心配で後ろ髪ひかれる思いがする。私個人とは2年ほど前からの取引だが、会社を通じてというと30年以上の長きにわたる大事な顧客だ。仕事的にはちょうど一区切りついたところなので、今後の再訪はあまりないと思われるので、心配はなおさらだ。ときどき連絡しますよと、安心コメントを告げたが寂しげな様子が肩のあたりに漂っていた。

 帰り道の途中、ショッピングセンターUNIMOへ車をむけた。昼から雨になるという天気予報だったが、台風の影響だろうか黒い煙のような雲の間からポツリポツリと水滴が落ちてきた。フードコートで昼をすませたが、子ども連れの母親、リタイア後の夫婦連れなどの姿が目だった。書店で本の物色。「ポラロイド伝説 無謀なほどの独創性で世界を魅了する」(クリストファー・ボナノス)、「最後の晩餐」(コリン・J・ハンフリーズ)、「ユリイカ10月号 特集=武田百合子 歩く、食べる、書く」の三冊をピックアップする。武田百合子、このひとの「富士日記」をいつか読みたいと思っているのだが、まだ果たせないでいる。

 みたいと思っていて見逃した映画、「トゥ・ザ・ワンダー」もぜひ映画館で観たかった。「シン・レッド・ライン」(98年)でベルリン国際映画祭の最高賞を受賞したテレンス・マリック監督の映像美をスクリーンで受け止めたかったからだが、去年の夏の封切りだったので上映している映画館などもうないだろう。そう思って家に帰ってからPCをチェックしたら横浜の黄金町の映画館で明日まで上映している。だからといって一本の映画のために横浜まで台風のなか、でかける元気はもうない。なので、DVD化を待つつもりだ。

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ツイてる?

 幕張本郷の顧客宅へいったついでに、ちかくの放送大学付属図書館へよってみた。HPでみて知ってはいたが、かなり大きな図書館だった。利用申込書に書き込んで入館証を受けとると、過去に放送した教材のCD、DVD、書籍などのほとんどが網羅されていて、視聴覚室で利用することができる。OPAC(Online Public Access Catalog)によって検索もはやく、インターネットでの配信により簡単に学べるシステムだ。一般の図書館とは違って学術的な雰囲気がただよう。2階へ上がるとものすごい数の蔵書(約32万冊)が目に飛び込んでくる。大英博物館の南方熊楠かくやとばかりに軽い知的興奮を感じてわくわくしてしまう。

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 さっそく一階の視聴覚室で棚から手にした〈日本古代中世史〉の書籍教材とDVDをモニターにONしてみた。いやッ、これは楽しい。学生になると本の外部へ持ち出しも可能なので、チョイ検討したい気分だ。終日ここで過ごしていたい、と思ってしまった。

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 さて、さらに寄り道をしようと国道からわき道にそれると、〈hottomotto〉の看板が目に入った。時計をみると2時を過ぎている。急に空腹を感じて駐車場に車をとめて、カウンターでのり弁(270円)をチョイスして、駐車場の車のなかで食べることにした。たしかむかしは〈ほっかほか亭〉という名前だったと思うが、M社にいたころ新宿支店から船橋支店に転勤になり、現場で部下のTK君が私をここで昼を買うことにしました、と連れていかれたのがこの店だった。35年前の氷雨降る寒い日で、松戸市内の国道6号沿いの店だったのを今でも覚えている。私もだが、TK君は全国のM社在籍営業マン1600人中、コンテストではいつもベスト5に入る常連という凄腕だった。当時私は部下7人をもつ課長だったが、係長のTK君はそんな私と一緒になって仕事を盛り上げてくれた。そのせいもあり、半年で私はM社千葉支店長として転勤した。

 そうだね、仕事が楽しくて楽しくて仕方ないという時期だった。プライベートも充実していて、睡眠時間は4時間もとれれば上等という日々の連続だったが、疲れたという気がまったくしなかった。振り返ってみれば、確かに繊細と実直を学習して奔放と狂乱を実行したという私にとって稀有な季節だったのだろう。いつもニコニコ微笑しながら過ごしていれたしね。そして半年待たずに千葉支店を全国一にしたが、それとて死に物狂いでやった結果などというものでは決してなかったが、ひとつのピークだったことには違いない。のり弁を車のなかで食べながら、久しぶりにこうしているのが仕事の原点だよねと、むかしを思い出してチョッピリ感慨にふけった。

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 そごうデパートによって、仕事用だがチョイと大きな買い物をした。会計の際、かかりの女性が本日は御客さまサービスのため、20%引きになってますと私に告げた。おおッ、ラッキーとばかりに浮いた分で美味しいものでも買おうと地下の食品売り場へいった。いくつか買ったら、2回分の抽選券をくれた。今日はツイているからな、とばかりにガラガラと抽選箱を回したら、2回とも外れだった。世の中、そううまくはいかない。


好き嫌い

 顔の好き嫌いはだれにもあることで、私とて例外ではない。だからといって私の好きな顔、嫌いな顔をいちいちブログで披露するのもヘンだし、だいいち相手に対して失礼過ぎる。でも神社にある狛犬の顔の好き嫌いを比べることくらいなら許されるだろう。そこで午前中、市原市の顧客宅へいった帰りに、ちかくの飯香岡八幡宮(八幡1057-1)の狛犬の顔をみようと行ってみた。由来によると、〈飯香岡八幡宮は、白鳳4年(664)一国惣社八幡太神宮と号して創建、以来武家の崇敬が篤く、天正19年には徳川家康より社領150石の黒印を拝領したといいます。明治6年郷社に、明治26年には県社に列格していました。〉とあったが、鳥居も檜造りでなかなか立派な神社だ。

 本殿は国、拝殿は県の指定文化財で、柳楯神事や刃長130cmの太刀、至徳元年の御神輿などの貴重な文化財が多く保管されているという。じつは建立、貞享3年の県内最古の木彫狛犬がここにあるのだが、神殿内に安置されているので拝見できない。そとから伺うとどうやら神殿内は御宮参りの最中らしく、忙しそうだ。なので、拝殿前の大正7年建立の狛犬をデジに収めたが、石が大きいので豊かでたっぷりとしている印象を受ける。耳は横に大きく張り出して、頭の部分がやや押しつぶしたような感じで横に広がっているのは大正年代の狛犬の特徴だ。なかなか可愛い顔をしているし、堂々としてるので、県社にふさわしい狛犬だと思った。

DSC06791石燈篭の模様もなかなか凝っている。

DSC06792どっしりとして機嫌がよさそうに見える。

DSC06793笑ってる?

 ちなみに社領150石の黒印拝領とあったが、一石は一人が一年に食べる米の量。キロに換算すると約150kgになるのだが(実際には成人男性一日玄米5合、年間玄米1,8石がそのころの標準的な扶持米)、黒印拝領なら寺社領に対する知行・安堵で、領内の租税は免除される。ってことはけっこう恵まれていたかもしれない。江戸時代の1石=一両=現在の75000円、と計算すると10kgの米を5000円で買ったとすればつじつまが合ってしまうので、なるほど、とうなずいてしまう。

 神社を後にして10分ほど車を走らせて、地図に載っていたカッパ池(山木44-2)を目指す。社宅のなかをぬけるとこんもりとした樹林のなかに農業用貯水池だが、思ったよりもひろく感じる池があった。

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 池の中央にかかる橋の上で釣りをしているオジサンがいる。なにが釣れるんですか?と訊くと、「クチボソだね」と応えてくれた。なんでも家の水槽で飼っているライギョのえさにするそうで、そのライギョもこの池で釣ったとのこと。この池にはほかにはヘラブナ、鯉、ナマズ、タナゴ、ブルーギルなどがいて、子どものころは泳げるほどきれいな水だったという。オジサンは自宅で幅180㎝クラスの水槽をはじめとして20個ほどの水槽に囲まれて、ライギョ、伊勢海老、蟹、クロダイ、ベラなどの自分で釣ってきた魚を飼っているとのことだった。伊勢海老などは夜釣りに行けば13,4匹も釣れて最初のころはみんなももらって喜んでいたが、いまでは飽きちゃって美味しいとも思わないともったいないことをいう。だから、水槽に入れて飼うことにしたんだが、だんだん増えちゃっていまでは伊勢海老が15匹もいると話してくれた。

 世話が大変でしょう?と訊くと、そうでもないよ簡単簡単と、笑って応えた(ちなみに血液型はA型だそうだ)。池の周囲の森にはカワセミも3匹ほど棲息していて、素人カメラマンが常時2,3人ほどきまった場所に陣取っているとのことだった。あれこれ30分ほど楽しく会話をしてわかれたが、なんとも長閑に感じた時間だった。

 さて、そのまま帰り道のついでだ、もうひとつ近くの神社に立ち寄ろう。小高い丘の上にある駒形神社(大厩947)だが、後から建ったのだろう住宅が取り囲むように周囲から迫っている。とはいえ、この神社の狛犬は市内最古の石造りの狛犬だそうで、顔がちょいユニークだ。見慣れた唐獅子風ではなくて眼をドングリのように大きく剥いて歯も剥きだしている。頭髪はオカッパ風で垂れ下がり、流れ紋となっている。力を入れて「うーんっ」と踏ん張っているようで、おもわず頑張れよッ!と声をかけて応援したくなる。この手の顔は嫌いではない。

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DSC06801尻尾がピーンとおッ立っている元気な姿。

DSC06802そんなに歯をむき出さなくてもと思うが・・・。



ヒタメン

 一日中雨が降っていた日曜日。こんな日は耽読にかぎるわい、とばかりにソファにあれこれスナック菓子をもちこんで読書して過ごした。昼過ぎから日本史からチョイ離れて手にした本、「ヒタメン」(岩下尚史)がとても面白かった。著者の岩下さんはときどきテレビでお見かけするが、ユニークなキャラクターはもっとブレイクするはずだが、バラエティの出演は一考の余地ありと感じる。さんまやたけしとのカラミはみたくないし(ってあの連中の自己顕示欲の餌食になりそうなので)、それに笑いの種類がそもそも違う。なのでNHKやBSの教養番組などで日本文化の伝統世界を語ってもらいたいと思う。

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 〈若き日の三島由紀夫の愛を一身に受けた女性と、そのふたりの恋を暖かく見守った女性。ふたりの女性の証言から浮かび上がる三島由紀夫の素顔とは・・・。 これまで幾多の伝説に塗り固められた来た三島由紀夫に対する先入観は揺らぎ、驚きとともに新鮮な感動に包まれる。〈ヒタメン〉とは〈直面〉と書き、能楽の舞台で、面を着けずに舞うことを指す。ふたりの女性が語る、誰も知らない三島由紀夫の、もうひとつの顔を御覧ください。〉とアマゾンのHPではこの本を紹介しているが、これまで私の知る三島由紀夫は、文学者としての顔、ボディビルによってつくられた身体、篠山紀信による写真、昭和45年11月25日の諌死事件などだ。

 後半部分まで夢中で読みすすめてきて、題名の〈ヒタメン〉なる意味がようやくわかる。〈ひとたび家を出て、敵味方打ち混じる文藝業界のなかにあっては、勝手元の苦しさはもちろん、襤褸もほころびも滅多に見せず、首尾よく、才子風の"斜陽族"を演じ通して、それ相応の効果を上げたことは、三島由紀夫の年譜に記された業績を眺めればあきらかである。この「仮面の告白」の成功を力草に、同じような屈託顔の美青年の仮面を掛けた"わたくし"を持ち役としつつも、聡明な三島由紀夫は、次第に敗戦後の復興景気を意識した都会的な藝を練り上げてゆく。生まれた家の環境と、文学に毒された狭い思い込みのせいで、少年のころには成し得なかった体験に次々と挑みながら、幾つもの重い扉を開けて、そのたびごとに自身を改造することで、ついに"直面"(ひためん)という、もうひとつの面を掛けて演技する境地に行き着くまでには、不断の稽古はもちろん、つねに清新を求める意志の強さがあったことを、此のたびの聞書を取るに連れ、しみじみと得心した次第である。〉と書いているが、一読して私の三島由紀夫像がより身近になったのを感じた。


晩秋モード

  終日読書。梅原猛の著作、「親鸞と世阿弥」、「聖徳太子」や中上健治との対談、「君は弥生人か縄文人か」などの梅原日本学に関する本や、NHKの番組、「さかのぼり日本史」の書籍版などで、時代区分は問わずの日本史関連本が多いが、いまの私の関心を表している。ノートもつくっているが、テレビ番組をみながらのノートつくりにも励んでいる。

 試しにワードに書き込んだノートをここにコピーしてペーストしてみたが、長すぎてブログには不向きだ。しばらくしてからプリントアウトして、自分の勉強用に書き込みできるように使いたい。PCにこう書いているうちにどうやら天窓に冷たい雨がポツリポツリと降ってきたようすだ。季節は一気に晩秋モードに突入したようで、なにやら肌寒く感じる。


顧客管理

 市原市からもどる途中に寄った市原市椎津の路傍におかれた馬乗り馬頭観音は見事だった。著書、「房総の馬乗り観音」の町田茂さんはこう書いている。〈馬乗り観音としては最も古いものの一つだが、石質が良いためほとんど風化しておらず、数ある馬乗り観音のなかでも一、二を争う優品である。馬が前方にぐっと彫り出されて立体感があり、細かい所まで丁寧に彫られた像は、造立当時の美しい面影を今もそのままに残している。側面に「これより江戸ミち」、「これよりたかくら道」と刻まれており、かってはこの道は坂東三十三観音札所の巡礼道でもあったようだ。馬に乗った馬頭観世音菩薩を「馬乗り観音」と呼んでいるが、これは千葉県にだけ多数造立されている特異な石仏である〉と。

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 姉ヶ崎幼稚園の先をしばらく進むと、住宅地の外れの杉木立になかにひっそりと一塔だけで佇んでいたが、むかしこの前の道を巡礼者たちがそれぞれの思いを胸にとぼとぼと歩いていったのかと想像するとなにやら胸に迫るものを感じた。千葉にもどる途中、昼になったので最近よく目につく看板、「ゆで太郎」へためしに寄ってみた。券売機でメニューのなかから薬味そば400円を選んだが、壁には〈挽きたて、打ちたて、茹でたて〉とあった。でき上がりをカウンターで受けとり、どんなもんかいなと興味津々で口にはこんだ。並みの盛りそばなら260円と表示されていたので小麦粉に色をつけたレベルのそばかと思っていたら、どうしてなかなかのクオリティを感じる。これなら蕎麦好きにも文句はないだろうと思った。次回はほかのメニューにもチャレンジしたい。

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 おゆみ野のBook Off で数冊本を買って家にもどる途中、ご近所さんのHP掲載の谷津田へ寄り道。車に積んだままになっていた長靴にはき替えて木漏れ日のなか、森の道を抜ける。しばし谷津田の周辺を散策だ。

DSC06752森をぬけると・・・

DSC06753秋の谷津田に出会う

DSC06757さっそくイナカギクのお出迎え

DSC06768きれいなアザミには棘がある

DSC06772ノササゲの黄色も出迎えにくる

DSC06775森の小道をのんびりとゆく

DSC06779木漏れ日さす、My ミクロの森

DSC06781ここでもイナカギクがいまを盛りに・・・

DSC06788そしてノザサゲも・・・

DSC06773気持ちのいい秋の谷津田

 久しぶりにうっすらとかいた汗が気持ちいい。すっきりとして家にもどるが、夕方から近くの顧客宅へいく予定時間までまだ間がある。ソファで麻雀番組をみながら知らず知らずのシエスタがやってきて、しばらくしてから図書館でリクエストしておいた、「さかのぼり日本史⑧室町・鎌倉」を受けとってから、約束の時間になったので顧客宅へむかった。小一時間ほどおしゃべりをして過ごしたが、私の来訪を心待ちにしていた様子だった。これってある意味、顧客管理だ。客宅を辞してからもう一軒、近くの顧客宅で仕事を終えてから帰宅する。久しぶりに遅くなったが、日の暮れるのが早く感じる。

秋の季語

 八街市からの帰り道、雑木林の中でポツンと赤い色が目立った。よく見たらカラスウリだった。見上げれば空には鰯雲が目に映り、句心がふと刺激されたが頭のなかになにも浮かんでこない。歳時記には鰯雲は9月、鴉瓜は10月に秋の季語として記載されていた。もっとゆっくりとした一日を過ごすなかで詠んでみたい。

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 国道126号の川井団地前を左折、都川にかかる橋で車を降りて秋草のなかを流れる水辺をパチリ。その先の栄久寺でもパチリ、とやってから家路についた。午前中の病院で聞いた先日の検査結果によると、生検の要ありとのことだった。なので、ちかいうちに紹介された千葉大病院で検査する予定。7年前にもおなじ病院で一泊して検査をしているのであまり不安は感じていない。

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潔癖?

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 昨夜、ひとり焼き蛤にあわせたのが、冷蔵庫にストックしておいた白ワイン。私が国内産ワインだったらたぶん一番おいしいと思っている東御町のワイナリー、ヴィラディストのシャルドネ種だが、熱々の蛤からあふれ出る貝汁に程よくマッチしてオイチカッタ。テレビをつけると「踊るさんま御殿」を放送していたが、テーマは潔癖についてだった。タレントが自分のこだわりの潔癖さを主張していたが、結構うなづける。潔癖症ではないのだが、私にも自分が潔癖だなと感じる点があるのでチョイとその話をしたい。

 それは食堂でだされる漬物のたぐいだ。それも糠漬けがアウトなのだ。いったいにどこの誰がどんな手でかき回したのかわからない糠漬けなどあまり食べたいとは思わない。私は自分で糠漬けを日々かき混ぜているが、かき混ぜる際には必ず手を洗ってからにする。見ず知らずの、しかも、なにやら胡散臭い食堂のオヤジ(かどうかわからないが)がよく洗いもしない手で毎日かき混ぜているのかよと、思ってしまうともうダメなのだ。そんなことはないのだろうが、ムリと思ってしまうとムリなのだ。

 もうひとつ、和菓子屋さんには申し訳ないのですが、直接指でこねくり回してつくっている生菓子がやはりダメなのだ。テレビ番組で華麗な手つきで職人が生菓子をつくる場面を見かけたりするが、細かな細工を素手でやられるとアウトなのだ。でき上がった生和菓子を食べるってことは、あの職人さんの指をしゃぶるようなものではないか、とさえ感じてしまう。神経質すぎるように思われるだろうか、それとも私が少しヘンなんだろうか。当店ではビニールの手袋を着用しています、とでもことわりがあれば問題はないのですがそんなこと貼ってある和菓子屋など見たこともないので、大福や饅頭なら問題ないのですが生菓子はパスします。

 O型なので結構無頓着なところもあるのですが、以上の2点に関してはどうしても気にかかるなー、とテレビを見て感じた次第。もちろん、自分の奥さんや母親、恋人、親しい女友達がつくるものならまったく気にならない。じゃあ、茶の湯だってそうじゃない、あれだってひとつの茶碗で知らない同士で回し飲みよ、それに寿司屋さんはどうなのよとか刺身だって手を触れるわよっていいだすとキリないのですが、上の二点に限ってのことなんですッ。

 さて、今日は台風がすこし収まった昼過ぎに病院へ行ったら閉まっていた。張り紙もなにもなかったが、きっと台風による強風のために本日休診ということなんだろう。なので、明日行くことにした。


一人焼き蛤

 〈台風26号が日本の南海上を北上しています〉とテレビがつげていた。あしたは大きい台風がくるし、明後日は都合があるので、いまから来れる?と顧客からのリクエストだったのでいつもの蓮沼まででかけた。どうやら雨がフロントガラスにぽつりぽつりと落ちてきたので、ワイパーをうごかしたらガラスの汚れが目立った。ウオッシャー液をかけると視界がクリアになった。この様子だと、用事をすませてから成東・東金食虫植物群落へ行くのはムリだな、と考えた。

 顧客宅の広い庭から道路に面して小さな無人の消防小屋が建っていて、台風や地震の際には数人の消防署員が詰めているそうだが、今日はまだ誰もいない。居間に上がりお茶と茶菓子をだされて一時間ほどおしゃべり。顧客が見る?といってもってきたむかしのアルバムにご本人の若いころの写真もあって話に花が咲いた。いかにも古ぼけたそのアルバムの黒地の台紙の上でモノクロの昭和の想い出がひっそりとしまい込まれていたが、どこか懐かしいそれらの写真は私の目の前にいる顧客の姿からは到底想像のつかない20歳代の慎ましやかな華やかさだったので、失礼ながらなんども確認をしてしまった。ときが過ぎるとはこういうことなのかと証拠を突きつけられたような気がした。

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 帰り道、いつものように海辺にでて九十九里の片貝海岸をデジに収めた。人っ子ひとりいない季節外れの砂浜は、雨水をたっぷり吸って重く、黒くどっしりと横たわり、荒涼としてほかにはなにもない。よせる波はまだ激しさを底に潜めているようで表面に表れてきてはいない。空と波のあいだには、カメラを手にした私という棒切れが一本刺さっているだけである。紙屑、空き缶、貝殻、流木、なにも落ちていない。鈍い灰色の裸体であるが、粒子は濡れて鈍重なので風に負けることはないだろう。時計をみた。昼をだいぶ過ぎていたので、食堂を探した。

 〈焼きはまぐりと地魚の店 海食堂 九十九里倉庫〉という看板につられて入ったが、薄暗い店内には他になにやら額をよせてヒソヒソ話に夢中の中年カップルのほかは誰もいない。シーズンオフの雨降る平日、もの哀しいムード漂うここでひとり焼き蛤でもないだろうと係のおばちゃんがすすめた天ぷら定食を食べたが、いつものようにデジに撮る気もしない。踵を返して家路にむかったが、途中のスーパーで生きのよさそうな蛤6個を買った。いまからひとり焼き蛤するけど、文句あっか!

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日本の食

 昨夜の夕食は天ぷらを揚げ(アスパラ、ピーマン、椎茸)、スーパーで買ったマグロの手巻き寿司とですませた。どこのなんというマグロかは知らないが、冷凍のマグロなので、食べてみればたしかにマグロだということがわかる程度の味だ。今日の昼は鮭のカマの部分を塩焼きにしたが、どこ産の鮭だか、もしかしたらサーモントラウトなる表示をときどき見かけるがそれだったかもしれない。なんの気なしに買い物かごにいれてしまうが、表示を詳しく確かめたことはない。食にこだわりがあまりないのか、とくに気にしたことはないが、最近は肉よりも魚のほうを選ぶことが多い。歳とともに食の嗜好も変わる。

 ファストフード店にはあまり行かない。AやAYなどもほとんど外食をしないが、Mだけはカーネル・サンダースやマクドナルドへ頻繁に足を運んでいるようだ。私の場合は付き合いで一緒に食べることはあっても自分から足を向けることはほとんどない。子どもに気に入られようとして、マクドナルドの玩具が目当てにカウンターに並ぶようだが、見ていてあまり感心した姿ではないといつも思う。子どもも拗ねればなにかしら買ってもらえることを知っているので、あれが欲しいこれが欲しいの連続だ。負い目を感じているのか、モノを買い与えることで気持ちの均衡をとっているのだろうか、チョイと目を離すと買い与えていたりするので、成長すれば三田佳子やみのもんたの子どもと同じ過ちをしないともかぎらない。Tさん、注意してあげればいいじゃないですかという人がいるかもしれないが、私はそれほどお人よしではないし、注意してなおるくらいならとっくにしている。だいいち、Mたちの子どもが成人になるまで生きていられるかどうかわからないのに、知ったことではない。

 こんなことを書いたのも、今日読んだ本「英国一家、日本を食べる」(マイケル・ブース)の影響かもしれない。裏表紙に〈脳がよろこび、本能がうち震える 日本の食べ物たちへの 熱い讃歌!!〉とあったが、ガーディアン紙が絶賛した異邦人の日本食紀行だ。本のなかで1980年に出版された、辻静雄の〈Japanese Cooking:A Simple Art 〉の新装版にふれて、〈驚いたことに、辻は、すでに1970年代の終わりに、伝統的な日本料理の衰退に気づいていた。「残念ながら、私たちの料理は、もはや本物だとはいえません。冷凍食品に汚染されています」彼はそう述べて、外国の料理がいつのまにか日本人の味覚を変化させているとも記している。とりわけ彼が嘆くのは、昔はなかった冷凍マグロの味で、それが「日本料理の伝統を破壊している」のだそうだ。辻がそういうこと書いてから、状況はどう変化したのだろう?辻が表現したような本物の日本料理は、今も残っているのだろうか?」〉と紹介している。

 そして矢も盾もたまらず日本へ行きたいという思いに捉われた著者は、日本行きのオープンチケットを4枚を予約して3か月の予定で家族でやってきたというわけなのだ。一読、外国人の眼を通してみた日本の食の現実がよく観察されていて面白い、おススメ本だ。アマゾンのHPによると、〈イギリスの「食いしん坊」が服部幸應、辻芳樹 から饗されたご馳走とは? ~食べあるきスポット~東京・両国「吉葉」、銀座「壬生」、新宿「樽一」「忍者屋敷」、日本橋「タパス モラキュラーバー」、「ビストロSMAP」収録スタジオ、代々木・服部栄 養専門学校/新横浜「ラーメン博物館」/札幌「ラーメン横丁」/京都・西洞院「麩嘉」、東山「菊乃井」「いづう」、南禅寺「奥丹」、伏見「玉乃光酒 造」、貴船「ひろ文」/大阪・道頓堀「ぷれじでんと千房」「だるま」、九条「大阪味噌醸造」、北新地「カハラ」、池田「インスタントラーメン発明記念 館」、阿倍野・辻料理師専門学校/福岡・博多「一蘭」「ふくちゃんラーメン」……他、多数収録〉と紹介している。

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情報整理

 秋晴れ、午前中は洗濯。昼過ぎ、TSUTAYAへDVDを返却にいく。ついでに雑誌を数冊購入する。帰り途中のホームセンターでルーズリーフ用紙B5サイズを200枚購入するが、198円だった。いままであちこちにメモ用紙をおいて書きためていたが、今後はこのB5サイズに統一しようと決めた。テレビから得る情報、本からの抜き書き、WEBの情報などだが、たまったらテーマごとにファイルしておけばいつでも取り出せて利用効果も高いはずだ。情報は使ってこそ情報といえるので、あちこちに書き散らしたメモもストックしたままでは宝の持ち腐れになってしまう。いままでのEvernoteと上手に共有していきたいが、デジタルとアナログの両立作戦、どうか三日坊主になりませんように。

 スーパーで食材を買うついでに、焼き鳥を3本買う。焼き鳥屋とか居酒屋の焼きたてとは違うのでスーパーでは皮しか買わない。トースターで温めてから七味唐辛子を山ほどかけて食するのだが、3本という本数は胃がもたれる寸前のきわどい本数だ。あと数年過ぎると2本がやっとという胃袋状態になってしまうのだろうか。


昔話

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 午前11時チョイ過ぎに町田についた。久しぶりに母親に会いにきたのだが、ホームの2階に上がると、母親はフロアのテーブルにひとりぽつねんとすわって岩合光昭の猫の写真集をながめていた。私の顔を認めると、名を呼んだ。ああ、よかったまだ私の顔がわかるのだと一安心した。弟たちを交えないで母親と二人きりというのもめずらしい。会ったら訊いておきたいと思っていたことがなかなか浮かばない。それでもむかしすんだ住居の思い出や、母親の好きなサザエの壺焼きなどの話、経営していた喫茶店や菓子屋、当時プロレスが始まると店のなかが客でいっぱいになったことなどを問いかけた。どうやら記憶に残っているのは半分くらいで、思いだせないことも多そうだった。

 いつもは顧客の話を訊くことを心がけているが、今日は相手が母親だからか私も饒舌になってしまう。ちょうど昼の時間になったのでテーブルに食事が運ばれてきた。あまり食欲がないという母親に食べなきゃだめじゃないかとスプーンで食事を口元に運んでやる。むかし私が母親にしてもらったように、食べやすい量をそっと口に運ぶと美味しそうに食べてくれる。そうなのだ、思いだしたのだが、そうやって病気のとき、母親にご飯を箸で口に運んでもらって食べる食事くらい世の中で美味しいものはなかったのだ。子どものころによくかかった病気は自家中毒だったが、そのたびに母親がご飯を食べさせてくれた思い出が一気に胸に込み上げてきた。なかでも私の好物はリンゴのすりおろしで、母親がスプーンでひと口ごとに含ませてくれるといつまでもいつまでもそうしていて欲しいと心から願っていたものだった。ちょうど、トレーのなかにも小さなボールにリンゴのすりおろしがついていたので、恩返しとばかりに私はスプーンですくって母親の口に注意深く運んだ。美味しそうに含み、嚥下する顔を見てたら、心のなかが穏やかな平安とでも呼びたいような落ち着きに満たされた。

 母親の右手5本の指先の爪に青いマニキュアが塗ってある。私がきれいに塗れているじゃない、というと、先日映画館の前で拾ったので自分で塗ってみたのだという。チョッピリ話につじつまが合わないこともあるが、おおむね元気そうでなによりだ。食事を終えた他の入居者を職員さんがうがいをさせている。うがいがすむと、午睡のために車いすを押してそれぞれの部屋へ連れていっているようだ。母親をみると少し眠そうな様子だ。今月の食事会にまた来るからねと、くりかえし声をかけて肩にふれてホームを辞した。約1時間半の親子の濃密な時間だったと感じたが、やがていつかは私の顔も名前もむかしの記憶もすべて霧散し、崩れ消えて人格が完全に消滅してしまうときがくるのだろう。たまらなく哀しいことだが、人間だれしも避けて通れない道だと少しずつ覚悟だけはしているつもりだ。

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 ホームをでたら急にお腹がへったと感じた。駅までの途中にみかけた蕎麦屋の暖簾をくぐった。〈そば切り 萬両〉と看板がかかっていた。カウンターへすわり、〈きのこと鶏つくねそば1,380円〉を注文した。蕎麦とつけ汁そのものは美味しかったが、いかにも蕎麦の量が少ないと感じた。町田の駅近くまでくるとなにやら太鼓の音がきこえてくる。秋まつり?と思ったがそうではなくて、〈町田大道芸〉と称してイベントが駅の広場で開催されていたのだった。南粋蓮というグループが阿波踊りを踊っていたが、12日、13日の二日間でいろいろな大道芸の出演があるという。町田市のイベントといえば〈23万人の個展〉が有名だったが、あの市民あげての盛り上がりの凄さは大道芸人を数人呼んで丸投げ的イベントなんかと比べ物にならない。30歳まで生まれ育った町に感謝こそあれ、文句をいう筋合いなどないが、共同体崩壊は昨今の時流とはいえチョイ寂しい気がする。

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 新宿にでると、ビルの合間に昨日の千葉と同じ青空が開けている。なつかしいションベン横丁、じゃなかった思い出横丁をぬけて西武新宿駅から西武線に乗って中井駅で下車した。商店街を抜けてぶらぶらいけば(徒歩7分)、〈林芙美子記念館〉へついた。

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 ボランティアの方がていねいに説明をしてくれるので、ここを訪れたらぜひ案内を乞うといい。建物の凝った造作の隅々の、訊かなければわからない見どころを教えてくれる。大正11年に上京して以来、多くの苦労をしてきた芙美子は、昭和14年にはこの土地を購入し、新居を建設し始めたというが、著書のなかで、「私の生涯で家を建てるなぞとは考へてもみなかったのだけれども、生涯を住む家となれば、何よりも、愛らしい美しい家をつくりたいと思った」と書いている。客間よりも、茶の間と風呂と厠と台所に工夫とぜいを凝らしたこの家は、人に見せるための家ではなく、住み手の暮らしと安らぎを第一に考えた家だという。庭も芙美子が生きていた当時は孟宗竹の庭だったが、亡くなってから夫が現在のような和風の庭に設えたという。

 住み始めてから10年後に芙美子はここで47歳で亡くなるが、ボランティアの説明を訊いていた客がエーッ、もったいないという声をあげた。いちばん美しい季節は春よりも庭の紅葉が色付く12月始めの頃がおススメですとボランティアの説明だった。裏庭を歩いてみると、たくさんの秋の花が咲いていて、ご丁寧にもそれぞれ名札がついていた。下の写真は鈴なりの杜鵑の蕾と花、そして屋根にかからんばかりの柘榴だ。

  花のいのちはみじかくて
  苦ししきことのみ多かれど
  風も吹くなり 雲も光るなり

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 さて記念館をでてそのまま脇道、四の坂を上る。右折して、新目白通りを超えてしばらく行けば(徒歩20分)、佐伯祐三アトリエ記念館へつく。私がつくと同時に館内の年配の職員(っていうことは東京都の元職員だろうか、見た目には出向させられた課長風)が、記念館から飛び出してきて閉館の4時まで10分しかないのでまず、ビデオをみてと記念館横のビデオルームへ忙しそうに誘導する。なにやらわからずにその部屋で9分間の佐伯祐三の紹介ビデオを写真撮りながら見るが、だったら記念館の内部を見てみたかった。ボランティアの方だろうか、部屋にいた老婦人が私の質問に答えてくれようとするが、なにしろ時間がない。〈佐伯はあの独特ともいえるポスターの文字や線描の描きかたをいつ、なぜ取り入れたのか?そのきっかけとなった理由は?〉この私の質問にボランティアの方はとなりの展示室に誘導しつつ、早口ながらわかりやすく説明をしてくれた。となりの展示室は妻の佐伯米子(画家)の作品や画業をパネルで紹介してあって、たぶん、この妻のことももっと私に説明したかったのだろうと感じた。

 しかし、あの年配の職員がそそくさとやってきて、無情にも私たちの話を遮りとっとと帰りやがれとばかりに私を門扉のそとに追いだした(と私に受け取られかねない扱いだった)。時計を見たら4時ジャストだったが、この杓子定規は一体なんなんだ。おもわずこの融通の効かない職員の耳にかじりついてやろうかと(私はマイク・タイソンか)憤慨した。もし私が遠方から(って千葉なんだから充分遠方なんだが)、北海道や九州からこの3連休を使って楽しみに訪館した佐伯ファンだったとしたらこの扱いは残念としかいいようがない。

 駅にむかって歩いていたら、さきほどの林芙美子記念館で一緒に説明を聞いていた老人夫婦が聖母坂通りをあがってきた。会釈を交わしたので、ああこの人たちも〈佐伯祐三アトリエ記念館〉へいくのだなとおもって、「もう閉まっちゃいましたよ」と告げた。すると、「ええ、そとからでもいいとおもって来たんです」と私にお辞儀をしながら応えた。私は歩いて20分でついたが、この老夫婦は中井駅から電車に乗って一駅の下落合から来たので時間がかかったのだろう。奥ゆかしいその態度にくらべ、あの職員の小ささが際だった出来事だった。

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 なんだかね、ブリブリしたら軽くお腹がへった。といってステーキとかハンバーグとかラーメンは食べたくない。昼は蕎麦だったから夜はうどんにしようと思い、地下鉄人形町で降りて讃岐うどんの人気店、〈谷や〉へいく。この店の紹介コピーにこうあった。「旨みが歯を弾いて、舌に転がる。喉で食べてよ、とうどんが囁いた」、カウンターに座って、〈鶏と4種きのこのかけうどん950円〉を注文した。喉が渇いていたのでグラスの水までもが冷たくて美味しい。親切なことに中盛りまで値段は一緒ですがどうしましょう?と訊く。中盛りとはいえ玉二つ分なので結構な量ですよという。迷わず中盛りにしたが、下の写真のように具材のきのこ、鶏ともに食べ応え充分にしてリーズナブルなお値段。麺は腰があるのにつるりんとして美味しい。うどんを食べたゾッという充足感でいっぱいになった。会計の際にそう伝えると、「そういっていただくと本当にうれしいんです」と笑顔で頭を下げた。それをみたら先ほどの佐伯祐三アトリエ記念館での出来事が潮が引くように胸から消えていった。

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シーズン

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 昼から同じ区内の顧客宅へ。空には秋雲がぽっかりと浮かんでのどかな風景を満喫する。帰り道、食材をもとめて近くのスーパーへいくとリニューアルされていて、グッと広くきれいな店内に変身していた。ゆっくり時間をかけて買い物を楽しんだが、主婦がたとえスーパーであっても買い物によってストレスが軽減されるという事実を実感した。品物についている価格が安いのか、そうではないのかは正確にはわからないのだが、チョイとした主婦の買い物気分をたのしんだ。

 夜、Mが鶏肉をもってきてTさん、唐揚げを作って欲しいんだけどと頼まれてしまう。訊けば明日は子どもの幼稚園で運動会があるので弁当をつくってもっていきたいとのこと。元夫の実家のある佐倉でのことなので朝早く電車で持って行くつもりだという。子どもが生活している元夫の両親たちと一緒に運動会を楽しむそうだ。私はこれから孫悟空のキャラ弁を作るので、Tさんの唐揚げができ上がったらとりにくるので連絡くださいという。気持ちはわからないでもないので了解するが、このPC閉じて少ししたら私はキッチンで鶏の唐揚げにとりかかるつもりだ。さっき、鶏肉をニンニクとショウガ、しょう油、日本酒、塩コショウなどに漬けこんで下準備をしておいた。なので、キーボードたたく指がニンニク臭い。


鷹狩り

 でかけた帰り道、若葉区の谷当町(やとうまち)の谷津田を通りかかったので、姥嶽神社に立ち寄ってみた。道端に咲くコスモスが谷津田を背景に風に揺れて、私に秋を演出してくれる。神社はこんもりとした森のなかにひっそりと私を待っていてくれた。石碑や、石塔の多い境内をすすんで本殿にお参り。きっと、農業の神様に多くの需要があったのだろうが、お馴染みの疱瘡神や昭和に入ってからの出羽三山講の梵天塚などが農の神様、地神塔とともに祀られていた。地神とは稲の穂を持ってきた神とか、百姓の神とか、あるいは春の社日に来て、田畑にでて、秋に帰るまで作物を作っている神とも言われている。

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 神社によっても狛犬の表情がそれぞれ違うので、できるだけデジに収めておこうと思っている。本殿に安置してあるはずの御本尊を拝観することがかなわないので、狛犬の個性を(お参りしましたよという記念程度に)記録しておきたい。ひと気のない境内で、じっーと対面していると、怖かったり、可愛かったり、ユニークだったりとそのときの自分の心が映されるようで、チョイとした鏡の役割もしてくれる。

 さて、車を少し進めると道の脇に石造りの道標がポツンとたっている。うしろにみえる白い細い道が佐倉古道で、道標の脇をみると〈さくら〉とちゃんと表示されていた。地図には道をはさんだ反対側に古墳と示してあったが、現在は地図に示された古墳の痕跡を見つけるのは周囲の景観も変わってしまい、難しそうだ。

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 そのまますすむと、T字路の右手に小さな祠があってたくさんの石仏、石塔やら近辺のお地蔵さんなどが集められて祀られている。それらを眺めてみるとかなりの石像、石碑などが近隣の農民たちの信仰を集めていた様子が目に浮かぶようだ。長いあいだ、お願い事など聞いていたそれらの石像たちが役目を終えてひっそりと終焉の場に安堵しているようでなんとなく微笑ましく感じた。

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 さて、少しすすむと右側に白幡神社の小さな石造りの鳥居が見えてくる。身をかがめないと頭がぶつかりそうだ。祭神は誉田別命応神天皇とのことで、境内の椎の巨木のしたに見事な庚申塔がある。ここでも、狛犬をパチリと。

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 日の暮れるのが早く感じる。帰ろう、そうおもって車を県道四街道浜野線にむけて走らせる。しばらくすると御茶屋御殿跡にでたので、チョイとよっていこうと車をとめた。ここは家康が東金に鷹狩りにむかう際の宿泊所とした場所だ。日本書紀には仁徳天皇の時代(355年)には鷹狩りが行われていたようで、鷹を調教する鷹甘部(たかいべ)が置かれていたと記録にある。家康が鷹狩りを好んだのは有名だが、鷹匠組なる技術者まで側近としてついていったという。ついていったのは側近ばかりでなく、側室も5~7人ほどつれていったというので相当な人数の移動が鷹狩りに行われたということだ。

 家康の通った道は御成街道と呼ばれ、船橋と東金を結ぶ約36キロの道で、慶長18年の12月末から翌19年正月までの短期間に家康の命により、佐倉藩主、土井勝利が作らせた。そのため、「一夜街道」とも呼ばれている。側室といえば家斉の40人には及ばないが、家康は15人、子どもは17男、5女を生ませた。ちなみにお気に入りの側室は数人いたが、家康が没したときにいちばん若かった側室は於六の方(1597-1625)で、20歳だった。その差、55歳!ってうらやましそうにおどろいたあなた、ヨダレが!ってオレのことか(笑)。

 ちなみに「佐渡殿(本多正信)、鷹殿(鷹狩り)、お六殿」と称されたというのだから、相当の寵愛ぶりだったのだろう。家康死後、於六の方は落飾して養源院を称して、田安比丘尼屋敷に住むが、あまりに若かったため、秀忠の意向で復飾して榊原康政の養女となり、喜連川左馬頭氏の嫡男、河内守義親に嫁いだ。しかし、寛永2年(1625)、日光東照宮に参詣のとき、社前で急死してしまった。まだ29歳だった。遺骸は日光山内養源院に葬られた。於六の方は、神前で焼香中に香炉が突然割れて破片が額にあたり、その傷がもとで(あるいは日光山中に雷の直撃を受けて)急死したといわれ、また、夫の義親もその2年後に若死にしたので、家康の嫉妬による祟りと世間にさわがれたという。

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