2013年04月

埋蔵文化

 こうみえても、(ってどうみられているのか知らないのだが)千葉県は意外と古墳が多い。目と鼻の先にも大膳野南貝塚、太田法師遺跡、六通貝塚、バクチ穴遺跡など縄文時代の遺跡があって、そこから検出された遺構は竪穴住居跡13軒、土坑約80基などだ。貝塚からは、石器や骨角器や貝製品、人骨、獣骨、魚骨などがみつかっていて4000~5000年前には定住型のムラの存在を示している。なにに触発されたのかわすれたが、3時過ぎに思いたって南生実野町にある千葉市埋蔵文化財調査センターにいってみた。

DSC04561DSC04562







DSC04563DSC04564






 初めて訪れたがこじんまりとした施設だった。館内には小学生の4,5人のグループがガラスケースのなかを覗き込んでいたりしてたが、マナーは良かった。「あなたの知らない千葉県の歴史」(山本博文監修)にはこう書いてある。〈黒潮のなかに突きでた房総半島は、外来の人や物を引っかけるフックのような存在だ。そしてその奥に、東京湾という誘き寄せられた物たちを吹き溜まらせる領域が用意された千葉県域は、それゆえ特徴のある歴史をもった。
 縄文時代中期から主として東京湾岸に直径100メートル超の馬蹄形貝塚が多く作られ、房総は「貝塚の宝庫」といわれる縄文文化の最盛期に突入した。

 稲作文化が房総地域にまで伝わったのは紀元前100年ころと考えられるが、農耕生活に移行したことによって社会は一変。佐倉市の六崎大崎台遺跡にみるような、集落のまわりを壕で囲んだ大環濠集落が形成され、拡大、変容する社会のようすを物語る。
 千葉県には古墳が多い。全国一の数にのぼる前方後円墳も確認されている。これは四世紀に畿内に興ったヤマト王権が地方にその勢力を広げるにあたり、同盟と服属の関係を波及させていった産物でもあり、ヤマトと共通する墓制が多いということは、それだけ東国のなかでもヤマト王権と関係が深かったということだ。房総は、ヤマト王権にとって、「さらにその先にある征服すべき土地」への足がかりでもあった。〉

 埋蔵文化財調査センターのガラスケースのなかには、石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良・平安時代、中世にいたる遺物が順序良く展示してあって歴史の流れがわかりやすい。中学生のころ、学校の下の芹が谷の田んぼへいけば縄文時代の土器の欠片や、石器などあぜ道にいくらでもころがっていたし、玉川学園の踏切近くでも黒曜石の矢じりをたくさん見つけたことなどふいに思いだしてなつかしい気がした。現在の子どもたちがこうしてガラスケースのなかの展示品としてながめるのみで学習するしかないというのもチョイ気の毒な気もした。が、パンフレットをみると小学生による発掘体験なども実際の遺跡でやれるようで、それなら楽しいだろうと思った。

 センターをでて、学園前駅近くの上赤塚貝塚にむかった。層をなしている本物の貝塚がうまく展示してある公園の入り口だ。オレンジ色の花に囲まれたゲートをくぐって古墳の上の公園内をしばし散策したが、森のなかにキンランがたくさん群生していた。樹間からは昨日過ごした城ノ台遺跡の森が見えた。

DSC04565DSC04566








初夏のような

 夏日と呼ぶ場合は一日の最高気温が25度以上必要だそうだが、今日の場合は21度。それでも昼から大百池周辺をあるいていたらすっかりと汗ばんでしまった。池の周囲は芝生の上でくつろぐ家族連れが目について、初夏のような明るい連休を楽しむ姿が微笑ましい。私がカメラで頭上の宿り木をパチリとやったら、木の下で休んでいた老人が、「あの枝先の植物はなんだろう」と訊く。「たぶん、宿り木でしょう」というと、やっぱりそうかとばかりに頷いて笑顔を見せた。〈寄生木、ヤドリギ科。ケヤキやブナなどの落葉樹の大木に寄生します。宿主の幹に楔型に根を喰いこませて栄養や水分を横取りします。こんもりと丸くなり、常緑なので冬に宿主の木の葉が落ちたときに遠くからでも目立ちます〉と図鑑には説明されている。

DSC04538DSC04536







DSC04535DSC04553






 老人はパンをちぎって膝元にためていたが池の魚にでもやるつもりなのだろうか。子どもたちは手製のつり竿にスルメをつけてザリガニ釣りに夢中だったり、ブルーギルを釣りあげていたりそれぞれが行楽を心から楽しんでいるようだ。私はそんなちょいとした喧騒から離れるようにして図鑑を片手に森のなかに入っていった。森閑とした森のなかはときおりカップルの散策姿をみかける程度で、あとはウグイスの鳴き声と鋭い鳴き声をたてる野鳥の見えない姿だけに占領されている。

 さっそく薄日の射す樹林の木陰に群生しているホウチャクソウをみつける(左下)。名前の由来は花の形が神社や仏塔の軒下に下がっている宝鐸(ほうちゃく)の形に似ることからついたそうで、細長い地下茎をのばしてさかんにふえるという。よく観察すると、花の基部は白色で先の半分が緑色をおびている。しばらくすすむと道沿いにキンラン(右下)の花の黄色が遠目にも明るく目に入る。ラン科の植物だ。名前は鮮やかなこの花の色からついたといわれる。

DSC04539DSC04541






 森を抜けるとぽっかりとした明るい台地にでる。説明板が立っている。それによると、この城ノ台遺跡は中世の城跡で、下総と上総の国境にあって上総方(里見氏)から攻め上る兵をここで待ちうけていたという。生実にあった小弓城の出城であったともいわれている。

DSC04540DSC04547






 深呼吸をくりかえしながら森のなかをゆっくりと歩いていく。木陰でウマノアシガタ(キンポウゲ科)の黄色い花をみつけた(左下)。私にとってはなつかしい植物だ。ボーイスカウト活動をしていた高校生の頃、年少の子どもたち(カブスカウト)の手助けをしていた。ピクニックにいくことになり、当日は植物の専門家の方にも参加してもらい、現地でいろいろな植物の名前を教えてもらった。このときはじめてウマノアシガタというこの植物の名前を教えてもらった。根生葉の形が馬の足型に似ているのでそう呼ばれるとの説明だった。よくみても決して似ているようにはみえないのだが、へぇ植物の名前って面白いもんだな、とそのとき妙に記憶に残ったのだ。

 森を抜けて大百池に降りる。田んぼで牛ガエルが鳴いている。藤の花が満開だ(右下)。森の斜面に細い階段が続いていて、木陰から小さな赤い鳥居がのぞいている。登ってみたら、厳島神社と書いた小さな社の横に石碑があって、「昭和7年に南生実の住民の手により大百池の地からこの場所に本殿を移設した」と説明が書かれていた。お参りする。

DSC04548DSC04556






 DSC04557DSC04560







 久しぶりに歩いたせいで、身体がじっとりと汗ばんでいる。車に乗り、近くのスタバへ移動。連休のせいで店内はものすごく混んでいる。私にしてはめずらしく列に並んで順番を待った。抹茶チャイラテのアイスをチョイスしてから席に移り、持ってきたアガサ・クリスティの短編、「火曜ナイトクラブ」のページを開く。ご存じ、趣味は編み物、庭いじり、それから…名推理というアガサ・クリスティが生みだしたおばあちゃん探偵、ミス・マープルものだ。ひかりTVでもシリーズで放映しているので録画して楽しんでいるが、原作者のクリスティが「ミス・マープルに最も適した女優」と評したジョーン・ヒクソン(吹き替えは山岡久乃)よりも、ジュリア・マッケンジー(吹き替えは藤田弓子)のほうが私は好きだ。

9d8e14bf1ff98962b46dae3c54a1e107










バラ色の人生

 なにやらいいことがあって、ご機嫌気分のときに口をついてでる歌の一つに「La Vie en rose」がある。車載搭載用の自作CDにもコニー・フランシス盤をいれておいたが、日本語で「バラ色の人生」というこの歌は多くの歌手がカバーしているのでよく知られている。もともとは1946年にヒットしたエディット・ピアフの代表曲だ。昨日、録画しておいた映画「エロティックな関係」(1973年公開)をみたが、このエンディングでもつかわれていた。クレジットにはPIERRE LOUIOUYとあったが、知らない歌手だ。

contents_xll







 この映画、オールパリロケで撮られただけあって物語の舞台としては申し分ない。もっとも背景をパリにした必然性は感じないが、制作側の好みの問題だったのだろう。出演は宮沢りえ、ビートたけし、内田裕也などだが、宮沢りえをのぞけば他の二人の演技は学芸会レベル。存在感はあるのだが内田裕也のセリフ棒読みや、たけしの役に入り込んでいない演技などにくらべ、当時19歳の宮沢りえの小鹿のような溌剌とした容姿と表現力の巧さのみが際だっている。最近、お茶やメガネのCFで大人の彼女の姿をみかけることができるのはうれしい。

DSC04531






 遅めの昼は大根おろしと鶏肉のポン酢炒めにした。鶏肉に片栗粉を少しまぶし、フライパンのフタして弱火で5分、中まで火を通す。大根おろしを加え、タレ(おろしにんにく、砂糖、ポン酢)にからめたらでき上がりだ。焚き上がったご飯と一緒に食べるとめちゃくちゃ美味しい。上のしゃれた器に入れたのは椎茸のワイン蒸し。胡瓜の糠漬は定番。お代わりをしてしまったので、お腹がぱんぱんだ。いまからソファでごろ寝の予定だが、太るよねぇ(笑)。

OLDIES

 どうやら連休が始まったらしい。天気もいいのでどこかへ出かけたいと思うのだが、中旬に予定している西武ドームで開催する今年の国際バラとガーデニングショーや鎌倉あたりへの散策まで遠出は控えようと思っている。なので近場でどこかへいくつもりでいる。初夏を思わせる明るさに昼は冷やし中華を食べようと思い、キッチンで湯をわかし支度をする。買ってきた生めんをゆでて千切りした胡瓜、ハム、薄焼き卵を載せればでき上がりだ。袋に焙煎練り胡麻と黒酢の芳醇な味わいと書いてある秘伝のスープをかけて口にした。瞬間、ああ夏がきたと感じた。

DSC04530






 コーヒーを淹れて読みかけの本を手にベランダにでた。「田村俊子」(瀬戸内晴美)だ。先日の、「美は乱調にあり」読了以来、寂聴さんの書いた小説にハマっている。テレビドラマ〈女の一代記「出家とは生きながら死ぬこと」(宮沢りえが好演している。2005年11月24日放送)を観たせいもあるかもしれないが、読みやすくてついついページに手をやり夢中になってしまう。優れた評伝でもあるので知的好奇心をも満たしてくれるのだ。田村俊子(明治17年1884-昭和20年1945)について東慶寺の項でこう書いている。

 〈「自由と独立と自己」を声高に主張しながら、実生活の中には、前近代的な儒教的修養精神や、封建制の伝統にとりかこまれていた、明治と大正のはじめにあって、じぶんを「目覚めた女」と自覚した田村俊子が新しい近代主義の思想に立って、しゃにむにじぶんをとりまく旧さを、じぶんの中の女に向かって細い腕をふりあげている姿が、悲痛さといじらしさと一種のこっけいさをもって、私には身近に感じられた。

 理論的には「新しい女」としてじぶんをきずきあげていた田村俊子の闘わなければならない敵は、あいかわらず旧態依然の頑固さで、彼女たちを圧迫している社会や、家庭や、その夫ではなく、彼女じしんの中に住む、旧い女の愛欲と情緒であった。
 同時代の男の作家たちが、近代主義精神や個人主義の思想にたって、現実の旧さとの矛盾に悩み、苦しみ闘っている苦闘とは、ニュアンスの違いがあった。

 田村俊子の文学上の行きづまりも、生活的破綻も、彼女が、この闘いに気力と才能がつづかず、無残に破れたところに由来するのではなかろうか。
 樋口一葉ほどの天才に恵まれず、宮本百合子ほどの思想性もなかった田村俊子の文学は、天性恵まれていた感覚が磨ぎすまされ、絢爛として独自の官能の世界を描きあげていった。
 その花は色薄く、花弁は小さくかじかんでいたけれど、一葉や百合子が咲かせてみせた大輪の花にはない、官能的な蠱惑的な強烈な匂いを放って、花茎は悪びれず天を指していた。〉

thth






 先ほど読了したが、他に寂聴さんの著作数冊をリクエストしている。少しずつ読んでいきたい。ところで読書のBGMに自作のCDをトレイに載せてリピートしながら流しておいた。5年くらい前にドライブ用につくったものだがなつかしい曲ばかりで、ときどきページをめくる手が止まってしまう。想い出がひょいと顔をだしたりするので、そのたびに行間の明治、大正、昭和の世界から頭のなかが平成にワープして当時乗っていたベンツの車内に漂いだしたりしてしまう。それはそれで楽しいのだけれど(笑)。15曲の曲名を以下に書きだしてみたが、ちょいオヤジっぽいですよ。

1、フライミー・トウ・ザ・ムーン(ドリス・デイの歌だが絶品です)
2、この素晴らしき世界(ルイ・アームストロング)
3、オンリー・ユー(ザ・プラターズ)
4、逢い引き(オルネラ・ヴァノーニ、聴くたびに胸がうきうき熱くなる。映画「オーシャンズ12」で効果的に使われている)
5、You Belong to Me(ヴェンダ・シェパードが米テレビドラマ、アリーマイラブのなかで歌った。大好きな曲だ)
6、甘い囁き(アラン・ドロン&ダリダ、日本では細川俊之&中村晃子が歌った。口説き文句のお手本にしたが、この歌詞を聴いたNに笑われた。大きなお世話だ)
7、バラ色の人生(歌はコニー・フランシスだが、映画「恋愛適齢期」のエンディングで流れるジャック・ニコルソンのこの歌も渋くていい)
8、砂に書いたラブレター(パット・ブーン)
9、ボーイ・ハント(コニー・フランシス)
10、アンチェインド・メロディ(ライチャーズ・ブラザーズ)
11、ムーン・リバー(ヘンリー・マンシーニ楽団)
12、夜霧のしのび逢い(クロード・チアリ)
13、スタンド・バイ・ミー(ベン・E・キング)
14、男が女を愛するとき(パーシ・スレッジ)
15、ミスター・ロンリー(ボヴィー・ビントン)

Billie Holiday

 昨日、ホームセンターで買ってきたポット入りの草花を鉢に植え替えた(春だものね)。富良野ラベンダー、カーネーション、ラミュウム、プチトマトの苗などだが、朝食後天気もいいのでベランダで紅茶片手に眺めながらまったりした。CDトレイにスタンダード・ジャズ(女性ヴォーカル編)なるディスクをセットしておいたのでリビングからビリー・ホリディ、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ボーンなどの歌声が聴こえてくる。たしか100円ショップで一枚200円で買ったと記憶しているが、まったりタイムのBGMとして聴くには問題ない。

DSC04528






 居間にもどりテレビをつけた。BSプレミアムで「永遠の音楽 グループサウンズ大全集」と題して懐かしの音楽を放映していた。ついそのまま見入ってしまう。昭和42年(1967)~44年(1969)に大流行したのだが、それから46年経っている。なので出演者の歌手の皆さんもそれなりに歳を重ねていて、楽器やマイクを持っていなければチョイ目には普通の老人となんら変わりがない。たぶん私にしても例外ではないのだろうが、自分を客観的にみるいい機会だった。

 Mからスーパーにいきませんか?というメールがあったので、買い物ついでにアパートでピックアップして鎌取駅前のイオンへ。夕方に友達が来るのでTさん、サラダをつくってほしいのだけれどとお願いされる。ったくサラダくらい自分で作れるだろうというと、肉じゃがは私が作るので交換しようという。しょうがねぇな、といいながら買い物をすませMのキッチンで支度をする。買ってきたマクドナルドのハンバーガーでMの子どもふくめて3人で昼にする。私はマクドナルドでの買い物をみていたが、なるほどテレビCFもふくめてハンバーガーの購入衝動をうながす作戦というか、勢いのようなものを感じる。隣のフードコートにはドーナツやチキンなどのファストフード店もあるのだが、賑わいはマクドナルドがはるかに勝っている気がした。やっぱり商売がうまい。

 サラダを作ってから家にもどり、録画しておいた新シーズンの「キャッスル」をみた。シナリオライターをチェンジしたのか、ストーリーも一段と面白くなっていて楽しめた。観終わって、午前中に聴いたビリー・ホリディが余韻をひいたのか、テレビを消してCDトレイにアルバム「Lady in Satin」をセットしてソファに横になった。I'm A Fool To Want You と彼女のかすれ声が歌いかけてくる。ビリー・ホリディは彼女の母親が13歳、父親が15歳のときに生まれて、母親の手で育てられる。10歳で強姦され、14歳で売春婦となって客を取っていたという。このようなビリー・ホリディ伝説は、しかし同時代の多くの黒人としては当たり前の事実だったようで、彼女の場合、さらに麻薬とアルコール、逮捕、服役、借金、DVによる憔悴などが加わる。以前みたNHKの「ビリー・ホリディ "ろくでなし" の恋」(初回放送2008年6月)で、彼女の歌の背景を知るに及んでより深くこの歌手のもつ自己嫌悪と自己回復にゆれるあわいのような歌声に深い魅力を感じるようになった。

thCAHGDHY2thCAFRH819






 番組はこう紹介されている。〈天才ジャズシンガーと呼ばれながら、44歳で生涯を閉じたビリー・ホリディ。その短い人生で恋に落ちたのは、金を貪るヒモ男、麻薬の売人など、どうしようもない男たち・・・。しかし一方で生涯にわたって唯一愛し続けたのが音楽を通じて深い絆を作っていったテナーサックスの巨人、レスター・ヤングだった。番組では、今日入手した1970年時代に収録された関係者のインタビューテープをもとに、ビリー・ホリディの愛をたどっていく 〉と。私が番組をみてさらに好きになったビリー・ホリディの曲に「Don't Explain」があるが、これはある日夫のジミー・モンローがシャツに口紅の跡をつけて帰ってきた。そんな夫の浮気に対するビリーの気持ちを歌ったものだといわれる。聴いていて胸の奥底にしみじみ沁み込んでくるような深い哀しみを感じておもわず、ゴメンナサーイと叫びたくなってしまう(苦笑)。

 村上春樹が「Portrait in Jazz」のなかでビリー・ホリディについてこう書いている。
 〈まだ若いころにずいぶんビリー・ホリディを聴いた。それなりに感動もした。でもビリー・ホリディがどれほど素晴らしい歌手かということをほんとうに知ったのは、もっと年をとってからだった。とすれば、年を重ねることにも、なにかしら素晴らしい側面はあるわけだ。

 昔は1930年代から40年代前半にかけて彼女が残した録音をよく聴いていた。まだ若くみずみずしい声で、彼女が歌いまくっていた時代のものだ。その多くはあとになって、米コロンビア・レコードから再発されている。そこには信じられないほどのイマジネーションがみなぎり、目を見張るような飛翔があった。彼女のスイングに合わせて、世界がスイングした。地球そのものがゆらゆらと揺れた。誇張でもなんでもない。それは芸術というようなものではなく、すでに魔法だった。そんな魔法を自在に使えた人は、ぼくの知る限りにおいては、彼女のほかにはチャーリー・パーカーがいるだけだ。

 でも声をつぶして、麻薬に体をむしばまれるようになってからのヴァ‐ヴ時代の彼女の録音は、若いころにはあまり熱心には聴かなかった。というか、意識的に遠ざけてもいた。とくに1950年代に入ってからの録音は、僕にはあまりに痛々しく、重苦しく、セティックに聴こえたのだ。しかし、三十代に入り、四十代へと進むにつれて、僕はむしろその時代のレコードを好んでターンテーブルに載せるようになった。知らず知らずのうちに、僕の心と身体はその音楽を求めるようになっていたようだった。

 ビリー・ホリディの晩年の、ある意味では崩れた歌唱の中に、僕が聞き取ることができるようになったのはいったい何なのだろう?それについてずいぶん考えてみた。その中にあるいったい何が、僕をそんなに強くひきつけるようになったのだろう?

 ひょっとしてそれは「赦し」のようなものではあるまいか―最近になってそう感じるようになった。ビリー・ホリディの晩年の歌を聴いていると、僕が生きることをとおして、あるいは書くことをとおして、これまでにおかしてきた数多くの過ちや、これまでに傷つけてきた数多くの人々の心を、彼女がそっくりと静かに引き受けて、それをぜんぶひっくるめて赦してくれるような気が、僕にはするのだ。もういいから忘れなさいと。それは「癒し」ではない。僕は決して癒されたりはしない。なにものによっても、それは癒されるものではない。ただ赦されるだけだ。

 でもこれは、あまりにも深く個人的なものごとだ。僕はそのことを一般的に敷衍してしまいたくはない。だから、ビリー・ホリディの優れたレコードとして僕があげたいのは、やはりコロンビア盤だ。あえてその中の一曲といえば、迷わずに「君微笑めば」を僕は選ぶ。あいだに入るレスター・ヤングのソロも聴きもので、息が詰るくらい見事に天才的だ。彼女は歌う。、「あなたが微笑めば、世界そのものが微笑む」 When you are smiling, the whorld smiles with you. そして世界は微笑む。信じてもらえないかもしれないけれど、ほんとうににっこりとほほ笑むのだ。〉 そうだよね、彼女の実人生をおもうときその歌声はひときわ輝きだして、テディ・ウィルソンのころころ転がるピアノの音とともに心と身体がおもわずスイングしてしまう自分を発見するにちがいない。

 PS:歌手のちあきなおみが1989年にビリー・ホリディの壮絶な人生を演じたひとり芝居「LADY DAY」をぜひみてみたかった。当時そう思っていたにもかかわらず機会を逃してしまったのだが、引退するとは思ってもいなかったのでまことに残念。こういう思いをしたことは過去にもうひとつある。1985年2月の夏目雅子の舞台「愚かな女」(西武劇場)だ。新聞の好批評を読んで私はチケットを入手しようとしていた矢先だったが、彼女は体調不良のため公演の最中だったが慶応義塾病院に緊急入院してそのまま帰らぬ人となってしまった。27歳だった。

成東方面

 午前中、九十九里の蓮沼で商用をすませてから、天気もいいのでぶらり蓮沼海浜の森をぬけて海岸へ向う。畑の縁にスイバが長い穂をつけて群生している。携行してきた図鑑にはこう説明がある。〈スイバはスカンポともよばれる。若い茎を噛むと酸っぱいのでスイバとついた。堤防の斜面などによく生え、穂が出そろったとき遠くから眺めると、赤いじゅうたんのように見える。昔「土手のスカンポ、ジャワ更紗(さらさ)」と歌われたのは、このころの風景であろう〉

DSC04503DSC04506






 DSC04507DSC04514







 左上の浜に咲いているのはカヤツリグサ科のコウボウムギという名の多年草だ。コウボウというからには弘法大師となんか関係があるのかもしれない。WEBで調べてみたら、やはり別名のフデクサ(筆草)にちなんでいるので、弘法大師の筆にたとえたとある。実際に筆として使われたこともあるそうだ。右はどうやらマメ科のハマエンドウだが、図鑑と首っ引きで調べてもカラスノエンドウとの違いがイマイチよくわからない。海岸に繁殖していたのでそう推理したのだが、正しかったのだろうか。

 さて、2軒目の顧客宅での用事もすんだので、さきほど近くの崖上で目についた赤い建物を目指して車をむけてみた。どうやら寺のようで、成東波切不動と看板が掲げてあった。正式名称は「長勝寺」と呼ぶらしい。江戸時代、漂流した漁船を寺の灯りが導き、無事に難を逃れたことから「浪切不動」と呼ばれ、近隣の住民たちには親しまれているという。本堂は朱塗の懸崖造りで、露出した奇岩の上に、突き出るような形になっている。背後には千葉県天然記念物に指定されている石塚の森の自然林がある。石の階段を上ると途中のお堂に、ぼけ封じ観世音菩薩と子育水子観世音菩薩が祀られている。「ぼけにかつ!」の看板におもわずお賽銭をあげて参拝してしまった。運悪くぼけてしまったら哀しい。

DSC04516DSC04518






DSC04519DSC04522






 最上段にあがると遠く九十九里浜までが見渡せそうだ。たしかにこの位置からだったら遠くの漁船からでも灯りが見えたにちがいない。しばし眺めに見いってしまう。さて、成東から家にもどる途中、あすみが丘の蕎麦屋で遅めの昼にする。最近できた店のようで私は初めてだが、「貴匠庵」と看板がでている。外観はモダンな戸建てなので手打蕎麦と書いてなければ見落としてしまうかもしれない。店内はBGMに静かなジャズがながれて、清潔感にみちている。注文したせいろ蕎麦もひと口手繰って味わうと甘みを感じて美味しい。近くへ来たらまた立寄りたい。

DSC04527DSC04526







 

「北回帰線」メモ

 〈いまぼくを猛烈に熱中させているものが、たった一つある。それは世間の書物では省かれているすべてのものを記録することだ。なんびとも、ぼくの理解しうるかぎりでは、われわれの生に方向と動機づけとをあたえている空気中のそれらの諸元素を利用してはいない。殺人者だけが、それらが人生にあたえつつあるものを相当満足すべき程度に人生から引きだしているようだ。時代は暴力を要求する。だが、われわれが獲得しつつあるものは不十分な爆発ばかりだ。〉

 〈ベンチに腰をおろして、腹の虫のうなるのをおさえつけ、チュイルリイ公園のなかをうろついては、唖のような彫像を眺めて勃起させる。それから夜はセエヌの河岸をうろつき、その美しさに夢中になって、さまよい、またさまよう。流れに枝さしのべる木々、水に砕ける影、血のような橋の灯の下をながれる急流、戸口に眠り、新聞紙の上で眠り、雨のなかで眠る女たち。いたるところ、かびくさい寺院の玄関と、乞食と、虱と、瘧をわずらっている醜い老婆と。横町に酒樽のようにつみあげられた手押車、市場の漿果のにおい、野菜と青いアーク灯にかこまれた古い教会堂、塵芥が詰ってぬるぬるする下水、夜通し乱痴気騒ぎをやったあげく悪臭と寄生虫のなかをよろめきながら歩いてゆく繻子の舞踏靴の女たち。サン・シュルピスの広場、森閑と人影もないそこには、真夜中ごろになると、こわれた洋傘を持ち、突飛なベールを被った女が、毎晩かならずやってきた。そして、その破れた洋傘の骨が折れてぶらさがったのをさしたまま、ベンチで眠った。服は色がさめて緑色になり、指は骨ばり、からだからは、すえたような悪臭を発散させていた。朝になると、ぼく自身がそこに腰をおろし、そこらじゅうでパン屑をあさっている鳩の畜生どもを呪いながら、陽光を浴びて、しずかにまどろんだ。〉

 〈フュルスタンベール広場を通る。真昼に見ると、まるでようすがちがう。このあいだの夜通ったときには、人影がなく、さむざむとして、幽霊が出そうだった。広場のまんなかに、まだ花の咲かぬ黒い木が四本ある。敷石に養われている知的な樹木だ。T・Sエリオットの詩に似ている。もしマリイ・ローランサンが彼女の同性愛の女たちを戸外へ引っぱりだすことがあるとすれば、こここそは彼女たちの親しく交わる場所だろう。ここはじつにレスビアン的だ。ボリスの心臓のように、不毛で、混血で、乾燥している。〉

 〈サン・ジェルマン教会の隣の小さな庭園に、とりはずした樋嘴が、いくつかおいてある。恐ろしい勢いで前へつき出ている怪物ども。ベンチには、これも怪物どもがいる―老人、白痴、不具者、癲癇病者など。みなそこに、おとなしく丸くなって、食事の鐘が鳴るのを待っている。向こうのザック画廊には、ある低能な奴が宇宙の画をかいたのが出ている―平面の上にかかれた画家の宇宙!変てこな、がらくたばかりの宇宙だ。ところが一段低い左手の隅には錨が一つある―それと食事の鐘だ。たたえよ!おお、たたえよ、宇宙よ!〉

 〈たとえばスタヴロギンについて考えてみる。するとぼくは、何か神聖な怪物が高い所に立って、おのれの臓腑を引きちぎってわれわれに投げつけている光景を思いうかべる。憑かれた狂気のなかで大地は震撼する。それは架空の個人にふりかかる災厄ではなくて、人類の大部分が埋没し、永久に抹殺される大天変地異である。スタヴロギンはドフトエスキーであり、ドフトエスキーは、人間を麻痺させ、ないしは頂点へ引きあげるそれらいっさいの矛盾の総和である。彼にとってはあまりに低いがゆえに入りこめぬ世界というものは存在せず、あまりに高いがゆえに登るのが恐ろしいという場所もなかった。彼は深淵から星にいたるまで、全界域を通りぬけた。神秘の核心に身をおき、その閃光によって闇の深さとひろがりをはっきりとわれわれに照らしだしてくれる人物に二度とふたたびめぐりあえる機会がないのは残念である。〉

 〈流れでるときのそれを愛する。苦痛なほど胆石のたまった肝臓を愛する。爛れを押し流してしまう小便を愛する。無限にひろがる林病を愛する。ヒステリーの言葉を愛する。赤痢のように伝播し、あらゆる病める魂の姿をうつしだす文章を愛する。アマゾン河やオリノコ河のような大河を愛する。そこではモラヴァジンのごとき狂人たちが屋根のない船に乗って夢と伝説を分けて流れ下り、行きづまりの河口で溺れ死ぬ。ぼくはすべて流れるものを愛する。受胎せぬ精子を洗い流す月経の血をすらも愛する。僕は流れるような草書体を愛する。たとえそれが僧門のであろうと、秘教のであろうと、ひねくれたのであろうと、千変万化のものであろうと、一方に偏していようと。ぼくはすべて流転するものを愛する。時間を内包して成長するもの、決して終わることのない出発点へとわれわれを連れもどすものを愛する。預言者の不条理。喜悦であるところのわいせつ。変質狂の叡知。役にも立たぬ連檮を行う僧侶。淫売婦の不潔な言葉。下水を流れる泡。乳房から出る乳液。子宮から流れでる苦い蜜。溶け、融解し、分解するいっさいの液体。流れてゆくうちに浄化され、もとの意味をうしない、死と消滅へと向かって偉大なる循環をする糞便。大いなる血族相姦的願望は流れてゆくことである。時とともに流れ、彼岸の偉大なる像を現世と融合せしめることである。それは言葉のために閉塞され、思想のために麻痺させられた愚劣にして自殺的な願望である。〉(ヘンリーミラー)

 せっかくの日曜日、終日雨降りの模様だ。リクエストしておいた本「語る女たち」(マルグリット・デュラス×グサビエル・ゴーチェ)が届きましたとメールがあったので図書館へ受けとりにいく。カウンターで受けとっていると、会釈する人がいる。以前裏の駐車場を借りていた貸し主さんだった。80歳は過ぎているだろうが、私が賃料を払いにいくたびに玄関先でよく話をした人だ。手に5~6冊の単行本を抱えている。エッ、その本全部借りるんですか?と驚くと、二週間に一回はこうして借りているという。以前は井上靖のファンだったのだけれど現在は特定の作家はいないので無差別にこうして借りて読んでいるのよ、と答えてくれた。それにしてもすごい読書量だと思う。読み始めると4時間くらいはずーっと集中してしまうといっていたが、私も80歳を超えてこの人のように読書に集中できるだろうか。

 傘をさして目の前のこの人の家のまえで別れたが、考えてみれば図書館のある場所はかってこの人の土地だったわけだし、自分の書庫代わりのつもりなのかもしれない。私にしても同じことが言えそうだ。目の前に図書館があるっていうことはそれだけで充分幸せなことで、住居選びの際の大きなポイントになる。加えて、おいしい手打蕎麦屋とカフェがあれば申し分ないのだが、まっ贅沢は言わない。暮らしぶりに何の不満もないのだから。

教養

 〈「お乳の匂いがするわ。初夏の空気って、いい匂いね」。藤の花が咲きはじめるといつもきまって心に甦る一節だ。これは、かの文豪、川端康成の短編集『掌の小説』の中の一篇、「藤の花と苺」のヒロインのセリフなのだが、藤の花の鮮烈なる印象とともに僕の心に深く刻まれた言葉なのだ。読後、すでに四十数年が経過しているのに今なお忘れ難きインパクトをもたらした『掌の小説』はまさに短編小説の醍醐味を肌で教えてくれた貴重な作品ともいえるのだ。〉

 小雨の降る肌寒い今日のような休日は、終日お気に入りの本を抱えて読書に耽ろうと考えた。上の文章は「すべては今日から」(児玉清)のなかで著者が爽やかな風が匂い立つ初夏に贈る、大好きな作家の至福の短編集と題して三作を紹介しているうちの一篇について書かれたものだ。私がもっている「掌の小説」は新潮文庫版だが、川端康成が主に20代のころに書いた122編の短編がこの本ななかに収められている。それにしても本読みで知られてはいたが児玉清さんはすごい、と思った。圧倒的な読書量のなかから冒頭のセリフ一篇を、この季節にちゃんと取り出してみせる芸当は俳優の余技というようなレベルをはるかに超えている。

 新婚の妻が夜の戸締りをしようとガラス戸に手をかけ、青葉をそよがせてくる夜風のなかに初夏の空気を嗅ぎ取り、「お乳の匂いがするわ」と夫に話しかけるなんて艶めかしくも初々しく感じてしまう。現代の新妻のなかにどれほどのこのような感性が存在するのかわからないが、私自身の過去帳の中には見つからない。しかも夫が夫婦の会話を切り上げようと「止せよもう、下から苺を持って来てやるからね。」というと、「ええ、水晶の数珠、藤の花に雪の降りたる。いみじゅう美しき乳児の苺食いたる。って『枕草子』にあるわね。清少納言も赤坊を産んだのかしら。赤坊が苺を食べる唇って、ほんとうに綺麗でしょうね。」と応える。この教養もはたしてどれだけ現代に通用するやら。

 付き合い始めの女性が、苺のフレーズに反応して枕草子の一節を語ったりしたらどうです?あなただったらその彼女に惹かれます?それともヒキます?私だったらものすごく惹かれますよ。あたりーぃ、と叫んで狂喜乱舞するかもしれない。当たり外れはもうしばらくつき合わなければわからないとしても、図書館抱いているような気がして楽しいと思います。もっとも相手から、はずれーぃと叫ばれてしまうかもしれないですが(苦笑)。

 さて、児玉さんがおススメする他の2作は、「第三の時効」(横山秀夫)と、「妻恋坂」(北原亜以子)だ。「第三の時効」については、〈六つの物語に入り乱れて登場する主人公の警官たちは誰もが個性が際だっていて心惹かれてしまうのだが、読むほどに、その生き様に共感とシンパシィを抱き強烈なるエールを送っている自分に気付くこととなる。しかも見事なトリック、意表をつく展開は、最後にあっと驚くどんでん返しもあって、その面白さは抜群の上、深い読後の感動と爽やかなカタルシスももたらしてくれる〉と熱く紹介ししている。

 「妻恋坂」についてもこう紹介している。〈ここに収められた八篇の物語は、全編を通じて漂う女の哀愁とその心の切なさをしみじみとした細やかな筆致で訴える中で、ほのぼのとした色香も匂い立つ、心に響く江戸の女の粋な物語だ〉と。なんだか読みたい本がどんどん増えていってしまうが、未読本がまだまだ控えている私にとって、今日のような雨降りの一日は絶好の読書日和なのだ。

マッサージ

 昼過ぎにいつもの床屋へ行く。カットのみなので2000円だ。シャンプーとヒゲそりはつかないのだが、そのぶん早くて私的には好都合なのだ。仕上げにマッサージ器を肩と首周りに当ててくれるのだが、その瞬間は肩こりを思いだすことになる。平素から肩こりなどは意識したことがないので、こういう場合に意識することになる。一年に一度、二度程度は肩のこりを感じたりはするけれど、そしてこうやって揉まれる機会があれば気持ちがいいと思うのだが、ふだんは肩のこりなどあまり意識はしない。

 Aなどは肩よりも足のふくらはぎの部分がとくに疲れるらしく、家に来るたび私がふくらはぎをメインに揉みほぐしてやると大喜びをする。一昨日も下の子どもが小学校に入学して少しヒマが出来たようで、ちょっとおしゃべりといいつつ昼過ぎに来訪した。最近気がついたのだが、マッサージをしつつ私は彼女の問いかけに応える形でいろいろと自分からおしゃべりをしてしまうようだ。Aがすすんで自身についてあれこれおしゃべりをすることはあまりないが、モチロン無口というわけではない。むしろ訊き上手だと思う、気が付くといつも私がべちゃくちゃとかなりのおしゃべりに夢中になっているのだから。そして相槌がだんだん小さくなってくるので顔をのぞくとマブタが重そうでうとうと状態に入り込んでいる。だいたいここまでが30分くらいか、睡魔に襲われたAにそっと毛布をかけておくとそのまま10分くらいは熟睡してしまう。顔は菜々緒に似ていて美人なのでインテリアとしても申し分がない。

 閑話休題(笑)
 さっき、ザ・シネマで映画、「世界最速のインディアン」(2005年公開)をみた。アンソニー・ホプキンス主演。解説にこうある、〈63歳でバイクの世界最速記録に挑戦したバート・マンローの実話を映画化。ニュージーランドから米国のレース会場までの旅をロードムービー風に描き、道中で出会う人々との心温まる交流を通じてバートの人柄を映す〉と。

lCAVO650H






 ご覧になったかたも多いだろう、私などバートがレースにこぎつけるまでの人々との温かい交流におもわず涙腺をチョイ刺激されてウルッときてしまう。そして年齢を重ねても記録に挑戦する姿勢に勇気をもらったようでなにやら気分が久しぶりに高揚する。HPにはバート・マンローについてこう説明があった。〈1000cc以下の流線型バイク世界最速記録保持者。 ニュージーランドに生まれ、15歳からバイクに乗り始める。1920年、インディアン・スカウトを購入。このマシンの元々の最 高時速は80キロ台だったが、よりスピードを求めて改良を重ね続ける。 62年、63歳の年齢ながら、アメリカのボンヌヴィル塩平原(ソルトフラッツ)で世界記録に初挑戦し、時速288キロの世界記録を 達成。以後も70歳過ぎまで毎年のようにボンヌヴィルへ行き、67年には時速295.44キロのインディアン最速記録を出す。ちな みに公式記録にはならなかったが、この年に出した最高時速は331キロだったという。〉
 

春の一日

 8時に起きてシャワーを浴びる。洗濯物をベランダに干し、朝食。ヤマザキパンの味付ロールなるホットドッグ用パンをトースターでかるく焼く。キュウリのピクルス、ザワークラウト、温めたTENGU HAMのレモン&パセリ味のソーセージをはさみ、マスタードとケチャップをトッピングしてからガブリとかじりつく。美味しい一日の始まりだ。午前中は市原の顧客宅へいったのだが、いつもながらこの人の話はまるでNHKの大河ドラマが目の前に表出するかのような錯覚に襲われる。人にはそれぞれのドラマが存在すると思うし、事実は小説より奇なりともいうが、それにしても山あり谷ありの起伏に富んだこの人の人生は宮尾登美子か有吉佐和子あたりが小説化したらさぞやおもしろい作品に仕上がりそうだ。

DSC04492DSC04494






 めっきりと春めいてきた陽気のなか、房総の里山を車で走る気分は楽しい。芽吹く緑に生命の営みを感じてこちらまでもが清々しい気分でいっぱいになる。上は養老川にかかる大坪橋付近からの眺め。顧客宅を辞するとMからメール。渡したいものがあるので寄りませんか、ついでにスーパーにいく予定はありますか?と。2時に次の訪問予定をしていたのでいったん家に戻る途中にピックアップする旨伝える。スタバのドライブスルーでトールサイズのコーヒーをテイクアウトしてからMをピックアップしてちかくのスーパーへ。渡したいものとはSUさんがつくったきゃら蕗と筍の煮物だった。

 SUさんとは亡くなったMの母親が一緒に暮らしていた相手の男のことで、入籍していたらMにとっては義理の父親ということになる。西千葉から引っ越しの際、不要の絨毯や大型テレビ、テーブルなどをあげたことがあったのでそのとき以来、私とは顔見知りだ。ときどきSUさん手作りのモツ煮やきゃら蕗などをもらうのだが、とてもおいしい。Mにとっては母親譲りの味というわけなのだろう。買い物をすませたMをアパートにおろして家にもどり、スーパーの総菜売り場で買った鯖の味噌煮と、もらった筍と蕗の煮物で昼をすませる。

DSC04495






 2番目の顧客宅へ余裕で間に合う。しばし歓談して商用をすませてからもう一軒の顧客へ電話をする。機会がなくてなかなかうかがえなかった客だが、ちかくにいるなら来てほしいとのことだった。この3番目の顧客宅でも約一時間ほど歓談を過ごし、商用をすませる。家にもどる途中、例の調整池のまわりを車から降りてゆっくりと一周を散策。黄色い花はミツバツチグリだが、名前はもどってから図鑑で調べた。〈多年草、西日本には同じ属のツチグリが分布し、小葉が3~7個ある。それに対して3小葉なのでこれはミツバツチグリ。ツチグリの根はクリに似た味で食べられるが、ミツバツチグリの根は硬くて食べられない〉とあった。右のツルに咲いた紫の花はアケビだが、初めて花をみた。手に取ってみると香水のようないい匂いがする。そういえば秋にこの下を通るとアケビの実が生っていたことを思いだした。

DSC04497DSC04502






 6時過ぎに唐揚げを揚げておいて欲しいとMに頼まれていたのを思いだし、家にもどる。さきほど、スーパーで若鶏もも唐揚げ用の肉600gを受け取っていたのだ。洗濯物を取りこみ、録画しておいた「ホワイトカラー」をみながらしばし休憩。6時になり、キッチンで鳥の唐揚げにとりかかる。さきほど漬けておいたニンニクとしょう油だれから鶏肉をとりだし、GABANのスパイス屋さんのからあげ粉(そごう地下で買った)を水で溶いたものに絡ませた。中火でゆっくりと揚げた。出来上がりを一口つまんでみたが、めちゃくちゃ美味しくてこれならプロ顔負けだぞと自画自賛してしまう。6時過ぎに子どもを連れてMが揚げたてを受けとりに来たので、美味しいぞーっと言って渡した。

 で、PCに向ってこのブログを書き始めたのだが、やっぱり私の夕食にも唐揚げが欲しい。そう思ったので今から冷蔵庫の鶏肉を取りだして唐揚げを作ることに決めた(笑)。



 昼を鴨蕎麦にした。といっても本格的なものではなくて、スーパーで買ってきた茹で蕎麦ひとり分にこれもスーパーで買った鴨だし汁なるスープを温めて上からかけただけのものだ。フライパンで薄く焼き色をつけて炒めた鶏肉と長ネギを加えはしたが、思ったより美味しかった。本当は手打蕎麦と本物の鴨肉だったらもっと美味しいのだが、贅沢は言わない。午後、いつもの床屋さんへ行こうと思い家をでたが、あいにく店は定休日だった。もうなん十回となく通っている割にはこういうことに無頓着だ。

DSC04489






 さっきみたNHKテレビ「美の壺」で竹林を取りあげていたが、番組のなかで美味しそうに草刈正雄が筍を食べていたのを思いだして夕食に真似してみたくなった。そのままスーパーに向う。途中の土手をみると野蒜がいっぱい自生しているのが目にはいった。5,6本チョイと摘んでポケットに入れた。スーパーの店内には筍が糠の袋と一緒に売られていた。手頃なサイズを選んでレジに運んだ。例年、この時期に筍を一度は食べるようにしているが、美味しいと感じることもさることながら、これで人並みに旬を味わっているという気分にも浸れるのだ。

 さっそく、たっぷりとした湯のなかに筍を入れて糠とともに約一時間茹でた。そのままにしてテレビをみたが、とちゅうで寝てしまった。夕方になり、料理を始める。まず茹であがった筍を取りだして根にちかいほうを細かく刻む。油揚げと一緒に白だしをスプーン大4、日本酒をスプーン大4、しょう油も少々加えて研いだ米3合と一緒に炊飯器にセットした。焚き上がりを見計らってから鍋に筍と若布の煮物をつくった。下のようにテーブルにセットして、筍尽くしの夕食を始めたが、季節感いっぱいの食事に心までもが満腹になった。右上の小皿のなかは牛蒡の山椒煮、味噌汁は大根の赤だし、ほかに胡瓜の糠味噌漬けをそえるのはいつものことだ。糠漬け続いています、ものすごく美味しいから(笑)。

DSC04491








泉自然公園

 昼前に泉自然公園についた。わが家から車で15分くらいか、思ったよりちかくに感じる。途中で買ったおにぎり2個と総菜コーナーにあった酢豚のパックをディバッグに入れた。ほかにエピのキャンプ用ガスストーブと植物図鑑、そして「佃島ふたり書房」も入れた。駐車場に車を止めるが、5,6台ほど止めてあるだけなので空いているにちがいない。HPにこう紹介されている。〈泉自然公園は、起伏に富んだ地形をそのまま生かして造られた緑豊かな自然公園です。草原の広場、花木の広場、水鳥池、長さ66mもあるつり橋などが作られており、自然とふれあいながらいろいろな楽しみ方ができます。園内は遊歩道で結ばれており周囲にはサイクリングコースが設けられています。染井吉野、枝垂れ桜、山桜など約20種類、約1,500本の桜が植えられています。(財)日本桜の会選定の「日本のさくら名所百選」にも選ばれている市内有数の桜の名所です。園内で豊富な野草を観察することができます。多くの家族連れなどが訪れ賑わいます。〉

 何度か来たことがあるので園内の様子は知っているつもりだったが、駐車場から菖蒲田に続く坂道を降りると池の周辺は以前とは少し違う印象だ。空は晴れていて風もない、寒くもなく暑くもない簡明にして清涼な空気感が、人っ子一人見当たらない園内を独占している。いや、独占しているのは私のほうかもしれない。桜のシーズンは物凄い混雑だっただろうと推測するが、だったらこの静寂は貴重だ。

DSC04447DSC04443






DSC04448DSC04445






 池にかかるいずみ橋の下を通って下の池のふちまでゆっくりと歩いていく。水鳥のほかには物音をたてる生物は皆無だ。しかも園内はきちんと手入れと清掃がされていて、まるで名刹の日本庭園をひとりで鑑賞しているようで、長年払っている市民税の恩恵をこういうところで還元してもらっている気分になる(笑)。そんなことを考えて歩いていたら、うっかりと園内の外にでてしまったようで一般道にぶつかってしまう。まっ、急ぐわけでもなし公園の外周をぶらぶら歩いていけばいいかとそのままひと気のない農道を歩く。つくしが畑の斜面にびっしりと繁殖している。林間の暗闇にはマムシ草が奇怪な模様をつけてお辞儀をしている。ときどきツツピー、ツツピーと鳥の鳴き声が聞こえるが、昨日聴いたウグイスの声はまだこのあたりでは聴こえない。

DSC04455DSC04450






 どうにか園内にもどり、お花見広場にでる。散った八重桜の花弁が美しい。お腹が減った。時計をみると2時だった。ベンチにしようか、東屋にしようか、それとも芝生にシート広げてなどと考えたが結局園内が広く見渡せる東屋で昼にすることにした。まず、ガスストーブで湯を沸かし、コーヒーを淹れて準備してからおにぎりを頬張った。ご想像のとおり、物凄く美味しい。開高さんのコピーじゃないが、「なにも足さない、なにも引かない」という気分にひたる。

DSC04456DSC04457






DSC04460DSC04467






 たっぷりと時間をとった。柔らかな陽ざしを背中に浴びて本を読んだ。2,3ページを読みすすめたが、あまりにうららか過ぎて読書する気分にならない。以前、NYのセントラルパークでみた光景が目について離れない。大きな岩陰に身を寄せて一人の老女が屈むようにして厚い本を読みふけっていたあの姿。なにやら孤高のオーラを発していて少しの感動をもらった気がしたのだが、どうやら俗物でミーハーな私があの境地に達するのはまだまだ早いようだ(苦笑)。

DSC04466DSC04468






DSC04473DSC04476






DSC04481DSC04482






 園内でバードウオッチャーのオジサンたちが野鳥のシャッターチャンスを辛抱強く狙っていた。いい写真は撮れたのだろうか。樹間に二輪草が群生しているが、ちょうど今が見ごろなのだ。下は一輪草で花径が3~4cmと二輪草より大きい。暗い林のなかでこの真っ白な花を見つけると、ホッとする。中段右はへびいちごの花だが、この花が終わると赤い実をつける。毒はないのだが味もしないし、食べておいしいものではない。ヘビが食べると想像してこの名がついたといわれる。下段左の花はシャガの花。右はクマガイソウだ。名前の由来は、ふくらんだ唇弁を熊谷直実が背負った母衣に見立てたものといわれている。これに対して平敦盛の名をとったアツモリソウがある。

 芝生のベンチに寝そべって空を見上げながらしばらくじーっとしていた。落ち着いた、とてもいい気持ちになった。ややこしいことはなにも考えないで、そのまま空をみていた。そうして10分くらいしてから起き上がり、今日3杯目のコーヒーをストーブで湯を沸かして淹れた。ベンチのテーブルでコーヒーを飲みながら図鑑を広げていたら、三脚にカメラをつけたオジサンがニコニコしながら話しかけてきた。「スミレの花を撮ったのだが、ちっとも名前がわからなくて」と私の図鑑を覗きこみながらいう。「そうですね、スミレはたくさん種類があるから」と私。「タチツボスミレとアオイスミレはわかるんだけど」といいながら、なにやら話を続けたそうにしている。訊けば船橋から来たといい、定年過ぎてからのカメラ歴は10年だという。船橋の三番瀬の話、大町自然公園の話、野鳥や蝶や花を撮るのが趣味だといいながら15分くらい話をして過ごした。別れ際、この公園は変化があっていいよね、と言った。私も同感だ。

DSC04484DSC04488








  

みちくさ

 昨日、BSフジで放送していた〈名作旅してみれば「佃島ふたり書房」〉をみていたらこの本、(出久根達郎著)をさっそく読んでみたくなった。番組は小説の主人公の目線で風景をながめ、なにかを発見するという一風変わったコンテンツですすめられていく。俳優イッセー尾形が案内人だが、著者の出久根達郎さんは集団就職で上京し、月島の古書店に勤め、独立後自身で「芳雅堂」という古書店を杉並区で経営をされている経験をもつ。

 私は佃島には2回行ったことがあるだけでそれほど詳しくは知らない。佃煮屋さん「天安」でお土産に佃煮を買ったことを憶えている。番組は佃島はもちろんだが神保町の古書街へも訪れて、古書店ビジネスの仕組みを紹介してくれたりして古書好きにはうれしい。なんとなくだが、古書店の主人なんて本が好きだったら誰でもなれそうに考えていたが、実際はそれだけでは難しそうだとわかる。ビブリア古書堂の店主、栞子さんがあれだけ本に詳しいのも納得できる。本読んだら佃島に行きたくなるだろうな、と思った。

 で、図書館で在庫のあるところはどこだろうとWEBで調べると、緑図書館においてある。そこで9時の開館に間に合うように今日の午前中でかけた(番組を観た人に借りられてしまったりしていたらムダ足になるしね)。館内には本を読む人、借りる人などがのんびりとした空気感を漂わせていて私も今日はここで本に埋もれて過ごしたい気分になる。カウンターの係の人に在庫を調べてもらい、倉庫にしまってあった「佃島ふたり書房」をもってきてもらった。ついでに書架でみつけた「ちば文学第10号」なる162Pの本も借りた。窓の外をみたら青い空がひろがっていて気持ちがよさそうだ。昨日、買った本「みちくさの名前。野草図鑑」(吉本由美)をみていたので、久しぶりに野草を捜しに原っぱに出かけたくなった。

 家に戻る途中、みちくさをした。家の近くのM大学の農場入り口手前の原っぱに車を止めて、降りてみた。靴裏に、一面びっしり生えた柔らかな草の感触が気持ちいい。ポケットからデジカメ出して草むらをながめると、ヒメオドリコソウ(左下)が群生している。図鑑には、〈ヨーロッパ原産の越年草。茎の上部の葉が赤みをおび、ほこりをかぶったように見える。葉面に小じわが多い。上部の葉のわきにピンクの小さな唇形花を輪状につける〉とある。拡大しないと見えないが、まわりに小さく青い花を咲かせているのがイヌノフグリだ。

 この花をみると私はKKを思い出す。高校2年生だった私たちは学校帰りによく近所の山や林にでかけた。ちょうどこの時期、あぜ道の脇に咲いていた名前も知らないこの花が可愛くて、ふたりで数本摘みとってからKKは大切そうに抱えて家にもって帰った。翌日聞いた話だが、それをみたKKの母親は「あんた、その花の名前を知ってるの?」といって笑ったそうだ。でもイヌノフグリと教えてくれてもその言葉の意味がわからないKKは、「フグリってなに」と母親に訊いたら、「自分で辞書調べてごらん」といわれてしまい、辞書ひいて初めてその意味がわかったと声をひそめて私に告げた。私も知らなかったが、そのときKKに教えてもらってから忘れられない花の名前になった。春になって空き地にこの花が咲いているのを見つけると、KKがその名前を私に告げたときの照れたような笑顔を思い出す。かわいい、ねぇ(笑)。

DSC04416DSC04420






 右上のお馴染みのタンポポは帰化種のセイヨウタンポポだ。在来種のカントウタンポポはあまり見かけないが苞外片が反り返っていないので、見分けることは簡単だ。さて、目ぼしい春の花3種類をここで見つけた。気持ちがいいのでもう少しみちくさを喰っていたい。そう考えてちかくの「高田排水路西部支線調整池」周辺の散策を思いついた。外房道路をくぐるトンネルを抜けたところに車を止めて歩きはじめた。他にもふたりほど散歩する人を見かけたがみなさん、いかにも気持ちがよさそうだ。

DSC04425DSC04427






DSC04430DSC04428






 ちかくでウグイスの鳴き声がする。今年初めての初鳴き?なのかケキョケキョをくり返している。まれにホーホケキョと完全バージョンが聴けるが、なんとも長閑で優雅な気分がする。上左はギシギシで、おひたしやあえ物、味噌汁の具などにも使う。右がハルジオン(春紫苑)、もしかしたらヒメジョオン(姫女苑)かもしれない。「みちくさの名前。雑草図鑑」には見分けの方法が詳しく書いてあるのにぃ、しかもその本を持ってでたのにぃ、デジ撮ったら安心してよく確認しなかった。「ビンボウグサ」、「テツドウグサ」とも呼ばれているらしいが、正確には次回の機会に。さて下段左はマメ科の植物、カラスノエンドウだと思うのだがはっきりとは断言できない。しかも右の紫色の花は庭の境界線などに群生しているので園芸種なのだと思う。名前はわからないが、最近よく見かける。

DSC04434DSC04436






DSC04438DSC04439






 調整池を過ぎて道を渡り、さらにすすむ。畑の境に垣根が出来ている。赤とピンクの椿の花がこぼれんばかりに咲いていて、ひと際目を引く。あぜ道を歩いてUターン、反対側を歩く。小さな農業用水用の小川が流れているが、魚はいないようだ。太いイタドリが繁殖していたので一本ちぎって柔らかそうなところをかじってみる。酸味があって美味しい。上左は真っ黄色に咲いている山吹の花だが、強い生命力を感じさせる。調整池に戻るとベンチが整備された周辺の道に設置してある。市の公園課が設置したのだろうか、桜の木の下に小さな白いすずらんが清楚に咲いていた。時計をみると、12時だった。お腹も減った。家にいったん戻って弁当持って泉公園に行こう、と閃いた。

 家の近くの図書館で「野草雑草観察図鑑」を借りた。家に戻り鼻うた気分でサンドイッチを作った。玉子を茹でて、マヨネーズで和えて、ハムとチーズをはさんで用意した。車に乗るとガソリンが少なくなっていたので、泉公園に行く前にいつものガソリンスタンドによってガソリンを注油していたらにわかに空が暗くなった。突然、雨が落ちてきた。エーッ、洗濯物干してあるしぃ、と慌てて家に戻る(トホホ)。雨がやむのを待っていたが結局やみそうもないので、せっかく作ったばかりのサンドイッチを家で食べることにした。ほんとうは泉公園の緑の芝生の上で食べたかったのに、ザンネン。

DSC04441








糞尿譚

 昨日の映画にでてきたシャワートイレットについて考えていた。TOTOがウオシュレットとして発売したのが1980年、以来家庭での温水洗浄便座の普及率は71,6%(2010年3月内閣府調べ)になるそうだ。私も西千葉のマンションからだから10年以上はつかっている計算になる。一度使ってしまえばその快適さに病みつきになること間違いない便利な発明品だ。なのでシャワートイレットのない生活なんてちょっと考えつかない。もちろん海外旅行だとか、山小屋に泊まるときには覚悟の上だし、仕方のないことなので文句などはない。環境にすぐ馴染むのは私の特技だ。

 シャワートイレットのないころはペーパーで処理をしていたのだが、肛門の皺に入り込んだ便を完全にふき取ることなど無理だったはずだ。そう考えると昔は結構不衛生な暮らしだったのだなと想像してしまう。20代の頃、手伝っていたバーで親父が客に自身の痔の手術をした際の話を面白おかしく話していたことを思い出す。そのときの医者にもらったとかという写真をよく客に見せていたが、そこには様々な形をした肛門が写っていて、排泄後のふき取りをていねいにしたところで雑菌を完全に除去はできないということだった。西洋のバスとトイレが一緒になったスタイルがいつ流行ったのかは知らないが、あれは排便後にすぐシャワーを使って清潔を保つ工夫だと知ったのは最近のことだ。

 Sの母親はあのバスとトイレの一体型が気に入らなくて、「なにが悲しくて便器みながら風呂に入らなければいけないのだ」と文句を言っていたそうだが、排便後すぐにシャワー使ってきれいにするためなんですよ、と教えたら文句は言わなかったかもしれない。私は24歳のときに建売住宅をローンで買ったが、年が明けた正月休みのとき突然に直腸が肛門からいきなり飛び出したような感覚に襲われてそのまま立てなくなってしまった。兆候はなかったのだが、それまでのハードな仕事と、休みの弛緩した気分とでどこかが緩んでしまったのかもしれない。偶然にもその一週間くらい前に私が買った家のちかくに軍医あがりだが、腕のいい肛門の医者がいるという話を知り合いに訊いたばかりだった。這うようにしてその医者を尋ねると、いぼ痔です即手術をしましょうといわれた。遺伝だと思った。

 仕事の都合もあったので「ハイ」と返事をした。病院の待合室で看護婦から渡された下剤を飲んで、指示通りぎりぎりまで我慢をしてからトイレに行った。排便後、立ち上がろうとしたら目の前が真っ白になって気を失った。チョイとした貧血だったようだが、その後手術台に寝かされ手術が始まった。老医者は仰向けに高く広げた私の両足の間に顔を突っ込んでライトを当てた。若い看護婦が私のものをひょいと指でつまんで動かないようにテープでとめた。恥ずかしくもあり、不思議なことでもあるのだが、そのときの指の感触を40年たった今でも覚えている(笑)。

 もっと不思議なのが、手術の助手をつとめた4人の看護婦さんが皆若くてかわいいのだ。しかも私の両大腿の外側から二人づつで覗き込むように老医師の手もとを手伝うのだが、どうしても彼女たちの胸が大腿部にあたってしまう。両側からそれぞれ4個だから合計8個の存在。それが若い私には偶然のようには思われなくて、なにやらぐりぐり押しつけられているような気がしてきっと私の反応を試しているにちがいないと思いこんだりしていた。そんなことを考えていたせいか手術はすぐにすんで、老医師の手にしたガーゼの上には36個のいぼが乗っていた。「大地主だね」と笑われた。それ以来、排便で苦労したことは一度もないし、便秘などしたことがない。なので私は痔ですという人に対して、程度にもよるが手術をすすめるようにしている。もし、あのころシャワートイレットがあったなら痔にはならなかったのだろうか。

thCAE9ZMQ0






 さて、昨日観た映画「情婦」の話だ。作品情報にはこう書いてある。〈英国の女流推理小説作家アガサ・クリスティが1932年に短篇小説形式で発表、その後ブロード・ウェイ、ロンドンでロングランされた舞台劇の映画化で、意表を突く結末をもったミステリー・ドラマ。「昼下がりの情事」のビリー・ワイルダーと「ハッピー・ロード」の共同脚本者の1人ハリー・カーニッツが脚本を担当。ラリー・マーカスが脚色してワイルダーが監督した。撮影監督は「炎の人ゴッホ」のラッセル・ハーラン、音楽はマティ・マルネック。主演は、「二十七人の漂流者」のタイロン・パワー、「モンテカルロ物語」のマレーネ・ディートリッヒ、「ホブスンの婿選び」のチャーズ・ロートン。〉

 1958年制作のモノクロ作品だが原作が優れているのだろう、55年たっていても古さを感じさせない。〈ミステリーの女王〉ことアガサクリスティの戯曲、「検察側の証人」を下敷きとした法廷劇の映画化だが、その後ヒットした法廷ドラマの原型のすべてが内包されているように感じた。なによりも二重、三重ともいわれる〈どんでん返し〉や、隠された伏線映像にこの作品が欧米では〈ワイルダーによる最良のヒッチコック映画〉と呼ばれていることに素直に納得してしまう。マレーネ・デートリッヒの曲線美も充分楽しめるし、スリリングな展開も楽しめる。映画好きにはおススメだ。


トイレット

 雲ひとつない青空。午前中、山武市の顧客宅へ伺うと裏庭で栽培しているシイタケの原木からもぎたてを3個もらう。直径10cm以上はある肉厚のシイタケは手にのせるとしっとりとした感触と重みを感じていかにも美味しそうだ。商用をすませ家に戻り、さっそくキッチンで昼の支度をする。石づきを取り、フライパンに油をひいて、塩、こしょうする。白ワインをくわえてふたをする。仕上げにバターを溶かして、しょう油を数滴たらせば出来上がりだ。

 熱々を口に含んだ。噛みしめると、しょう油、バター、白ワイン、シイタケの味と香りが混然一体となって、滋味あふれる肉汁が口腔いっぱいにひろがる。おもわず、うまいッと叫んでしまった。食事を終え、テレビをONする。BSプレミアムで映画が始まった。リモコンで番組情報を見ると「トイレット」と番組名が表示された。美しい映像に惹かれてつい見入ってしまうが、アメリカ映画だろうか?

toilet-sub2_large






 日本人はもたいまさこだけで他はすべてアメリカ人だが、丁重に物語が進捗していくのでハリウッド映画ではないとすぐにわかる。地味だが、味わいのある映画だった。観終わってからWEBを覗くとこう紹介されていた。【人生に退屈し、自分の世界に閉じこもって生きる三兄妹が、心を開いて家族のきずなを深めるまでを描く感動ドラマ。『かもめ食堂』『めがね』の荻上直子監督が、海外で自分のオリジナル脚本の映画を撮るという念願の企画を実現。三兄妹と触れ合うばーちゃん役に荻上作品の常連もたいまさこ、謎の女性役に『西の魔女が死んだ』のサチ・パーカー。荻上作品ではおなじみのフードスタイリスト飯島奈美による美食の数々にも期待。物語:プラモデルオタクのレイ(アレックス・ハウス)、引きこもりピアニストの兄モーリー(デヴィッド・レンドル)、エアギターで自己実現のアイデンティティーを保っている大学生の妹リサ(タチアナ・マズラニー)の三兄弟は、人生は退屈の繰り返しに耐えることだと信じて疑わなかった。しかし、生前母親が日本から呼んだばーちゃん(もたいまさこ)との日々を過ごす中で、三兄弟の心に少しずつ変化が起こり始める】と。

 日本が誇る最先端のテクノロジーのひとつとして水洗トイレットが効果的につかわれている。アメリカの田舎町を背景に、日本人のばーちゃんがもつ感性が兄弟たちを結び付ける。家族とは何か、と考えさせる監督の意図は成功したと思う。番組のあと、解説者が小津を感じたと発言していたが同じことを私も感じた。画面のなかで、みんなで餃子を手作りするシーンがあるのだが、よし今夜のおかずは餃子にしようと思ってしまった。観終わってから一旦、テレビをOFにしたのだが、少ししてからなんの気なしに再度画面をONすると、〈華麗なる宮廷の妃たち「ラストエンペラーの妻 婉容」〉という番組を放映している。おもわず興味を感じて、ソファに座りなおしてしまう。

 番組の内容は、小説「我が名はエリザベス」(入江曜子)に描かれている婉容についての考察を著者交えてのトーク番組だ。本の内容は、〈
ラストエンペラー、満州国皇帝溥儀の妻の凄絶な生涯。フランス租界に育ち西洋文化を身につけた少女が、清朝最後の廃帝に嫁いだことで経験する数奇な運命。宮廷での退廃と無益な日々。満州国成立によって皇后になるが、日本敗戦、そして満州国崩壊。戦争と革命の時代、男たちの権力に抗いながら悲劇的な結末をむかえた女性の一生を綿密な調査と独自の視点で描くノンフィクションノベルの傑作!第八回新田次郎賞受賞作〉と紹介されている。単純な私は番組を見ながら本を読みたくなったし、映画「ラストエンペラー」も過去に何度も観ているにもかかわらずまた観たくなってしまう。

thCACJ7MODthCAV5FK9K






 とはいえ、現在図書館で借りている本は「放浪記」(林芙美子)があり、「本のなかの旅」(湯川豊)があり、リクエスト中の本は、「みずいろメガメ」(中野翠)、「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治)、「女の足指と電話機」(虫明亜呂無)、「華やかな孤独」(尾形明子)、「田村俊子」(瀬戸内晴美)、「父と子のフィルム・クラブ」(デヴィッド・ギルモア)、「わりなき恋}(岸恵子)、「利休の逸話」(筒井紘一)、「絵画のなかの熱帯」(岡谷公二)、「ミュータント・メッセージ」(マルロ・モーガン)などで「我が名はエリザベス」についてはペンディングにしておくのが無難だろう。だからあとでDVD、「ラストエンペラー」を借りてこようなどと考えていたら、まるでタイミングを見計らったかのように久しぶりにMからメールで、「ツタヤに行きませんか」と連絡がある。即OKして一緒にちかくのTSUTAYAへ行く。 

 Mは子どもに借りたDVDの返却。私は「ラストエンペラー」ともう一本、「情婦」をレンタルする。監督:ビリー・ワイルダー、主演:マレーネ・デートリッヒ、タイロン・パワーで1958年公開のモノクロ作品だ。が、作品についての感想は明日にアップします。

みだらの構造

 斜めに突きだした天窓にあたる雨だれの音が終日やむことがなかった今日の土曜日。外出する予定もないので、ソファに腰を据えて日本映画専門チャンネルで〈心中天の綱島〉をみた。まだ大学生だったころ公開時にみた記憶があるのだが、あまり印象に残っていない。先日もこのブログに、年齢を経ないと見えてこないものがあると書いたが、そのとおりでみ終わってから改めて浄瑠璃作家の近松門左衛門(承応2年1653-享保9年1725)という人のストリーテラーとしての力量を認識した。いや、認識などという程度ではなく驚天動地とでも表現しようか、300年以上も前の日本にこれほど男女の人情の機微というか、感情の捉え方が存在してたことに鳥肌のたつ思いがする。

th






 物語は紀伊国屋の遊女・小春と紙屋治兵衛の心中までのいきさつに、治兵衛の妻・おさんや、兄・孫右衛門といった周囲の人が絡んだ" 女同士の義理 " を描いた世話物の名作だ。小春に横恋慕する金持ちの太兵衛のセリフ、「そういやこの小春、金で横取りしてこっちにもらおう、もらおう。金でできぬことなどこの世にはないわ」と昔のホリエモンのような悪態をつく。女房のおさんを治兵衛のもとから強引に連れ去る父親の場面で、ボーっと指くわえながら眺めるだけの丁稚の姿に観客は現在の自分の姿を被らせるにちがいない(私だけか)。

 女房のおさんと遊女小春を岩下志麻が二役で演じている。「みだらの構造」(林秀彦)という本のなかで著者は、〈岩下志麻が演じた日本語の愛欲の世界〉と題してこう書いている。【いずれにせよ、西洋のエロスは、理屈なのだ。根本的に語感が異なっているにもかかわらず、みだらとは「日本のエロス」と言うと、なんとなく格好がつき、納まりもよくなってしまう。横文字の威力であり、魔力である。だが実は、魔力をもっていたのは日本語のほうなのである。魔力とは理屈ではない。五感の響きこそ、魔力なのだ。英語をはじめとする横文字はすべて「理屈語」であり、日本語は世界でただ一つの「情語」なのだ。白人にあるものが「合理主義」なら、日本人のわれわれのもっているものは「合情主義」である。(中略)

 真上から撮った大俯瞰図、屏風絵だかなんだかよくわからない模様の上に、小春が(というより志麻さんが)軽く両目を閉じ、両手を広げ、簪の刺さった髪と顔をやや右に傾け、花とおぼしき絢爛模様の長襦袢と帯を乱し、指を力なく広げ、脛からはみ出した左足は伸ばし、右足は裾を蹴散らせて折り上げている。その股のあいだに、真上からで髷に隠れて顔は見えない治平衛が、着物姿のまま半身折りこみ、右手は襦袢越しに女の乳房の上に乗せ、左手と右足の膝は、女の股間の裾に差し込んでいるように見える。

 これほど見事な日本のみだらを表現した構図も、モデルの姿もないのだが、当時この写真(映画作品)ですら「みだら」という言葉はつかわれず、マスコミのコメントもエロティシズムとか、エロスとか表現されていたように思いだす。この映画のスチールはもう一枚もっている。二人の心中の後の場面で、川原の石というより、大きな岩の上に敷かれた筵の上に、互い違い、頭を逆にして並べられた死体の構図で、これも真上からの俯瞰写真である。両方の写真とも、男女とも裸ではなく、女は裾を乱した長襦袢姿となっている。その心中姿はみだらであり、凄艶とも呼べる。

 日本のなかでも、いわゆる「愛欲シーン」と呼ばれる演技で、岩下さんほどのみだらさを醸し出せる女優さんを、私は他に知らない。白人女に見習ったような、まがい物のエロを出せる女優さんは、掃いて捨てるほどいる。近松の頭に描いた女は、こんな女だったにちがいないと思わせるほどの、江戸のみだらさを肌で把握しているということは、美貌などを超えた感性、歌舞伎や浄瑠璃の「語感の響き」を肌で感じられる役者に限られるだろう。岩下志麻さんの愛欲表現は、日本語の愛欲なのである。こんな女優さんは、もう出ないかもしれない。みだらの終焉なのだ。】と絶賛するが同感だ。

51ZX9V0W4TL__SL500_AA300_










 映画が終わってエンディングのあと、〈あのころの出来事〉昭和44年5月24日公開ですと、由紀さおりの「夜明けのスキャット」をバックにナレーションが入り、〈この年の6月、経済企画庁が、日本の国民総生産が、西ドイツを抜いて世界第2位になったことを発表。日本が経済大国になったことを私たち自身が自覚しはじめるとともに、「モーレツ」、「エコノミックアニマル」といった言葉が流行語となるなど自嘲的に語られ始めた時代でした。この年の11月、佐藤首相が訪米、アメリカの統治下にあった沖縄の3年後の返還が決定されたのでした〉と振りかえる。あれから44年たっているがおススメです。

 物語をもう少し詳しく以下に。
 〈大阪天満御前町の紙屋治兵衛は、女房子供のある身で、曽根崎新地紀伊国屋お抱えの遊女小春と深く馴染み、情死のおそれもあった。これを案じた治兵衛の兄粉屋の孫右衛門は、武士姿に仮装し、河庄に小春を呼び出した。孫右衛門は、小春に治兵衛と別れるようさとし、その本心を問いただした。小春は治兵衛と死ぬ積りはないと言った。折から、この里を訪れていた治兵衛は二人の話を立聞きし、狂ったように脇差で斬りこんだ。だが、孫右衛門に制せられ、両手を格子に縛られてしまった。そこへ恋敵の太兵衛が通りかかり、さんざん罵り辱しめた。これを聞きつけた孫右衛門は、表に飛びだし太兵衛を懲しめ、治兵衛には仮装を解いて誡めた。治兵衛は目が覚めた思いだった。そして小春からの起請文を投げかえして帰った。数日後、治兵衛は太兵衛が小春を身請けするとの噂を聞いた。悔し涙にくれる治兵衛。これを見た妻のおさんは、始めて小春の心変りは自分が手紙で頼んでやったことと打明けた。そして、小春の自害をおそれ、夫をせきたてて身請けの金を用意させようとした。おさんの父五左衛門が娘を離別させたのはそんな折だった。それから間もなく、治兵衛は小春と網島の大長寺で心中した。〉

Cry Me a River

 二日間かけて平塚らいてうの自伝、「元始、女性は太陽だった」上下巻を夢中になって読了してしまった。禅門に入るきっかけ、そして参禅の日々から見性悟入という悟りを得るまでのプロセスなども、へたな禅入門書などを読むよりよっぽどわかりやすかった。文章も平たんに書かれていて、青鞜発刊のいきさつや塩原事件、奥村博史との結婚生活や、新しい女論、母性保護論争から婦人解放思想へ発展していく様子が理解できる。大正から昭和という時代の空気感までもが伝わってくるので、女性問題を知りたい人や学びたい人には格好の案内書になるだろう。

DSC04412DSC04410






 稲毛にでかけて用事をすませ、昼をどこで食べようかなどと考えながら駅の裏手の道を歩いていたら、「コルトレーン」という看板が目に入った。小さなビルの5階と表示されていたのでエレベーターで上がってみたら、OPENと扉にはあったが訊けばなんでも今日はイベント開催日なので夜にならないと開店しないという。どうやら貸し切りのイベントが多い様子で平日に来店しても入れないことが多いという。仕方がないので店の外にでたが、となりにカレー専門店「シド」の看板があった。微かにカレーのスパイスの香りがして、チョッピリ誘われる気分。で、迷わず店内へ。

 注文したのは(上の写真)チキンカレーと野菜カレー、ほうれん草のピューレがプレートに乗ったセットのカレーだ。これをサフランライスの上に一緒にかけて、混ぜて食べるのですと店員さんに説明されたとおりにして食べた。インドに行ったことはないが、なんとなくガンジス河の袂で食べているような錯覚に襲われて、目の前を滔々と流れる大河が見えたような気がした。小さなボールにコーンのスープとコーヒーがついて1200円だった。食べ終わって外にでた。せっかくここまで来たのだから久しぶりにジャズを聴きたい、と思ってちかくの「jazz spot CANDY」へ行く。

DSC04414DSC04413






 この店が現在の場所に引っ越しする前の店には一度行ったことがあるのだが、この場所は初めてだ。住宅地のなか、重たい防音扉を開けると、キレのいいピアノの音が耳に飛び込んでくる。キースジャレットのLP、スタンダードVo.2からだった。右の写真に写っているのがJBLの最高蜂スピーカー〈エベレスト〉だ。ここから放たれる音に日常が吹っ飛び、集中していると雑念が消え、やがて恍惚が訪れる。店内にはひとり客ばかりだが4人いて、皆さん60歳代とお見受けするが個々に音と対峙している姿に居心地の良さを感じてしまう。

 壁の棚にはびっしりとLPレコードが整理されているのだが、2枚目は常連客の持ち込みレコードらしく、ジャケットのタイトルにGABOR SZABOとあった。インド風といえばいいのか、ジョージ・ハリソン風といえばいいのか、シタールギターらしい音色と歌が入っていてちょっと場違いな気もした。このアルバムを女店主は2曲でパスして、カウンターのうしろの棚にずらりとストックしてあるLPのなかからアートブレーキー・ジャズ・メッセンジャーズをグッドチョイス。4枚目はサド・ジョーンズ、5枚目がレイ・ブライアント・トリオのアルバム。たっぷりと堪能した私はアルバムの一曲目、クライミアリバーを聴いてから会計(1000円)をした。

 店の外にでて駅に向かう途中、ついクライミアリバーを口ずさんでしまう。1955年にジュリー・ロンドンが歌って大ヒットした。2001年のダイアナ・クラールのアルバムにも入っている。なんとなくマリリンモンローの映画の主題歌のような気がしていたが、WEBで調べたら私のカン違いだった。

歌詞は次のとおり
Now you say you're lonely
You cry the long night through
Well, you can cry me a river
Cry me a river
I cried a river over you

Now you say you're sorry
For being so untrue
Well, you can cry me a river
Cry me a river
I cried a river over you

You drove me, nearly drove me, out of my head
While you never shed a tear
Remember, I remember, all that you said
You told me love was too plebeian
Told me you were through with me and

Now you say you love me
Well, just to prove that you do
Come on and cry me a river
Cry me a river
I cried a river over you
I cried a river over you
I cried a river...over you...

今になって寂しいというのね 一晩中泪を流したなんて
だったら泪が川になるほど泣いてみせてよ
私だってあなたのために泣いたんだから

今になってすまないというのね
だったら泪が川になるほど泣いてみせてよ
私だってあなたのために泣いたんだから

気の狂わんばかりに夢中にさせて
なのにあなたは泪一つこぼさなかったわ
憶えているわ 恋なんて卑俗なことだとよとか もう俺たちは終わったんだよとか

それなのにいまさら、私の事が好きだなんて
だったら愛してるってことを証明してみせて
泣いてみせてよ泪が川になるほど 
私はあなたのために泣かされたんだから

F君のOK牧場

 親戚の家の娘に昼をよばれた、そんな気にさせる民家風のくつろいだ食堂だった。小雨のぱらつく今日、昼をどこで食べようかと東金の顧客宅をでてから考えた。いつもの手帳をみると九十九里の「はちどり食堂」とメモってあったので向かったが、なにをみてメモったのかは覚えていない。九十九里海岸から歩いて5分のところにある普通の家風の食堂だ。庭の縁側から靴を脱いでなかに入ると40歳くらいの、にこやかな女性店主が迎えてくれた。店を開けたばかりなのだろう、黒板に本日のおすすめメニューを書いていたのでそのなかから、納豆チャーハンと塩唐揚げのランチをチョイスした。おしゃべりするとスッとこちらの心のなかに入ってくるような気の置けない雰囲気を感じる。

DSC04406DSC04403








DSC04397DSC04405






 もうひとり若い女性がいて、訊けば6月に出産の予定だという。客は私ひとりだったので店主交えて少しおしゃべりをする。3年前に店を始めるときに銀行に融資を申し込んだが断られてしまい、それなら手持ちのお金で何とかやってしまえと開店にこぎつけたが、男性だったらもう少し慎重になったり、準備を整えたりして開店できなかったかもしれない。その点、女性の場合はなんとかなると、とりあえず始めてしまえばいろいろな方の応援もあってこうしてどうにか軌道に乗ってきたということかしら、と話してくれる。そこが男と女の思慮行動の差なのかな、と私。

 廊下に貼ってあった地方紙のこの店の紹介記事にこうも書いてあった。【店名の由来は、南米の伝承話を翻訳した「ハチドリのひとしずく」(辻信一監修)。ハチドリの〈私は、私にできることをしているだけ〉というフレーズに心を打たれたという。「自分が恋に落ちた食材を使っています。」と料理にはこだわりを見せ、有機栽培された米や、野菜などに加え、塩も地元産を選び抜いた。農家の人とのコミニュケーションを大事にし、地産地消に取り組んでいる。太田さんの好奇心と感性に合わせて食堂は七変化するヨガ教室に。落語の寄席、書道とアロマテラピーのコラボレーション。映画上映・・・。すべてお客さんとの何気ない会話や偶然の出会いから生まれたイベントだ。】と。ここ居心地がいいので再訪するつもり。

 さて、家に戻りテレビをつけるとBSプレミアムで「OK牧場の決闘」を放映していた。おっ、懐かしいじゃあないか、とそのままソファに座ってラストまで観てしまった。映画自体は1957年制作(私が観たのは数年後だが)の西部劇だが、当時中学生だった私は夢中になり、この物語について書かれた本を買って読んだ。保安官、ワイヤット・アープ(バート・ランカスター)と賭博師のドグ・ホリディ(カーク・ダグラス)の二人と仲間たち二人が牛泥棒のグループ7人と町外れのOK牧場で決闘するのだ。バックに流れる曲も覚えてしまい、英語の意味もわからずよく歌っていた。

th






 同じクラスのF君にその話をしたら、F君も大好きだという話になって本を貸すことになった。それがきっかけで二人は仲良しになって私はF君の家によく遊びに行くようになった。微かに足を引きずるような障害があったF君の両親は私をいつも大歓迎してくれた。正月休みの一日、F君の発案でクラスの女子二人を呼んで一緒にF君の家で新年会をしようということになった。そのうちの一人、D子がひそかに私が好意を抱いていた女子で、当日は思春期を迎えた中学生らしく服装などにも充分注意を払って出かけた。新年会はコーヒーとケーキで和やかに始まった。緊張していた私はバカなことにコーヒーに添えられたスプーンをつかってカップからひと口づつすくっては飲んだ。あとから思うとなんであんな飲み方をしたのか自分でもわからない。しかも私のその飲み方をみていたD子が、エッという表情をしたのを私は見逃さなかった。

 そのあと4人でバトミントンをしたりして楽しかったのだが、私はあんな飲みかたをしてD子に嫌われたと思い胸のなかではちょっぴり落ち込んでいた。しかも、後日F君もD子のことが好きだということがわかってからあまりF君の家に遊びに行かなくなった。「OK牧場の決闘」を観ていてそんな昔のことを思いだしていた。自分のうぶさが微笑ましい。

ドン・ロドリゴス

 「コンニャク屋漂流記」、読了。〈生まれ育ったのは東京・五反田近くの町工場の家。子供の頃、祖父を慕い集まってきた千葉・房総半島の漁師村の親戚は、「声も大きくお酒も好きな」にぎやかな人ばかり。自身の体に流れる漁師気質への疑問を胸に、親戚のお年寄りを訪ねると、先祖は400年前、紀州(和歌山県)から船で房総に渡ってきたという話が飛び出した。「古事記みたいな話に、取りつかれてしまって……」。そうして生まれた受賞作『コンニャク屋漂流記』(文芸春秋)は、「コンニャク屋」という変わった屋号を持つ星野家の昔を巡る探訪記だ。家族史の行間に、埋もれた庶民の歴史を垣間見る面白さがある。祖父の出身地、千葉県御宿町岩和田の民は、江戸の初め、難破したメキシコ生まれのスペイン貴族ドン・ロドリゴを保護し、大航海時代と接点を持った。漁師の六男に生まれ上京後、五反田界隈(かいわい)の町工場で苦労した祖父は、この地に潜伏したプロレタリア作家・小林多喜二と同じ昭和初めの空気を吸った〉という紹介記事のとおり、著者星野博美さん自らのルーツ探しの顛末を書いた労作。

 本のなかに登場するドン・ロドリゴについては、御宿の山の上に建てられた記念塔に二回ほど行ったことがあるので少しは知っていたが、この本によってさらによく知ることができた。乗り組んでいた者のうち56名は溺死したが、317名は一命をとりとめた。小さな漁村、岩和田に300名を超える異人が上陸したのである。岩和田の人々が大航海時代の世界と接触した瞬間だった。

 著者がそのときのことを親戚の老人(かんちゃん)に訊くと、こう話してくれたという。〈「ドン・ロドリゴの乗った船が難破してね、田尻の先にぶらさがってたの。まあびっくりしたっぺよう。あんもわかんねかったろぅ。岩和田のもんどもが総勢で行って、裸でね、腰巻一枚で助けたんだぉ。火よかね、体温が一番いいんですって。鼻の高えもんどもよ、裸で抱いて温めたってよう。いまになって、岩和田もんども、偉いなあと思うけっけよ」

 海の厳しさを誰よりも知るのは海の民である。海という自然の脅威を前にしたとき、人間は誰でもが平等に非力な存在だ。自分たちが日頃から海の恐ろしさを肌身で感じているからこそ、海に投げ出された異人たちを憐れんだのだろう。(中略)海水に長くさらされたドン・ロドリゴたちは相当な寒さを感じていたらしく、「此諸島の冬は厳しく、既に其始なりしが故に、空気は寒くして刺すが如く」と書いている。岩和田の民たちは、自分たちの生活もままならないというのに、夫たちに着物を出させ、異人たちに着せたのだった。そして、ロドリゴは37日間、岩和田村に滞在し、太子(秀忠)及び皇帝(家康)の宮廷にあがって報告するように申し渡されるのである。〉

 当時のヨーロッパからみればその頃の日本は格好の植民地にみえていただろう。自国の餌食に、あるいは出世の手段としてロドリゴにとって遭難は千歳一隅のチャンスと考えたかもしれない。著者もこう書く。〈ロドリゴという男はなかなか食えない人物だったようだ。秀忠と家康に謁見するため江戸、駿府へ向った彼は、岩和田にいたときとはうってかわり、日本の地理や風土に関して詳細な記録とイスパニヤ国王・フェリペ三世宛の書簡を残している。その目は、遭難した一航海者ではなく、植民地政治家としての目である。この国は自分が仕えるイスパニヤ国王にどんな利益をもたらすのか、道中ひっきりなしにそんなことを考えていたようだ。〉

記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

tnb47

カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ