2012年10月

狡猾の人

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 語られている事実はそう大きく変わらない。目線をどちらサイドの側に据えるかで印象はまるで正反対に見えてしまう。先日の「普天間交渉秘録」の読了のあと、共感を感じた自分に疑問を感じてべつな視点から書かれた本、「狡猾の人」(森功著)を手にした。〈防衛省を喰い物にした小物高級官僚の大罪〉というサブタイトルのついた例の元防衛次官、守屋武昌と事件につい書かれた本だ。

 【これまで報道されてきたように、事件の端緒となったのが。06年夏に起きた軍需専門商社「山田洋行」の内紛だ。山田洋行は社主の山田正志率いるグループ企業の一角を占めてきた。巨大な企業のひしめく軍需産業にあっては後発の小さな会社だ。が、山田の懐刀である実力専務の宮崎元伸が業績を伸ばしてきた会社だった。その宮崎が独立し、新たに「日本ミライズ」という同業の会社を設立する。それが、グループのオーナー、山田正志の逆鱗に触れ、山田による宮崎の追い落しが始まった。

 そうした企業の内紛騒動で漏れてきたのが、守屋にたいするゴルフ接待である。オーナーの山田にしてみたら、独立した宮崎を追い落とす格好の材料が、守屋と宮崎の蜜月関係だったわけだ。
 その一方、捜査当局にとっては防衛産業と官僚トップの癒着という絶好のネタでもある。守屋武昌は、防衛庁時代に事務次官に就任し、防衛省に昇格してからも次官の席に座った注目の高官だ。東京地検がこのネタに飛びつくのは、無理もない。そうして地検特捜部が、防衛事務次官という官僚トップの汚職に発展する事件だと睨んで捜査を始めたのである。】

 読み物としては守屋自身の書いた(といっても代筆者によるものだろうと思うが)、本のほうが面白い。が、両方を読み比べてどうにかバランスのとれた見方ができるのだろう。ノンフィクションを読む場合、一面からだけ見て判断するのは間違いやすいのだ、とも感じたが二冊読んでみて正・続と考えれば納得できる。あとがきにこうあった。

 【ペンタゴンにいたジム・アワーやリチャード・アーミテージといった大物ロビイストたちは、公職から離れたとたん、変貌する。軍事産業やみずからつくった大学へ寄付をやったり、企業から法外なコンサルタント料を巻きあげては、自らの懐を暖めている。守屋をはじめとする防衛省の官僚たちは、そんな世界に身を置き、国防政策を実行していった。それは官僚でありながら、ロビイストやブローカーが暗躍する、得体のしれないシステムを容認していることにはなりはしないか。

 インタビューの最中、私は常にそこに違和感を覚えていた。その点について守屋は言った。「彼らは公職にいるあいだは、いっさい企業との関係を断っています。政府から離れてはじめて、民間企業から顧問料やコンサルタント料をもらう。それは米国社会で認められていることなんです」

 だが、本当に米国社会が、それを容認しているのだろうか。法外なコンサルタント料を払っているのは米国企業だけではない。日本企業も彼らに顧問料や講演料を支払い、ビッグビジネスを手にする。忘れてならないのは、このビジネスが防衛予算から成り立っている国防の事業だということだ。まさしくそこには利権構造があるのではないか。その点を守屋に問いただした。

 「そうかもしれません。しかし日米交渉の現実は、彼らを使わなければ負けてしまうんです」強いて言えば、これが長らく鬼っ子扱いされてきた日本の防衛官僚の限界なのかもしれない。昨今、世に受け止められている官僚という響きは最悪に近い。公僕、官吏、国家公務員というより、狡賢く立ち回る“役人”というイメージが定着しているようにすら思える。なぜそうなってしまったのか。守屋武昌と接していると、その理由がわかるような気がした。彼に本来の公僕の姿を見出すことはついにできなかった。そして、地検の捜査も不発に終わった。】


歴史探訪 船形

 はじめて館山自動車道を高速バスに乗って館山へ行った。自分の車で幾度となく通ったことはあるが、乗客としてリクライニングシートに身をまかせて房総の秋の里山を車窓からのんびり眺めるのもいいものだ。それにしても目につくのが道路沿いの背高泡立草だ。さいきんどこでも見かけるが、日本へは明治末期に園芸目的でもちこまれ、「昭和の初めには既に帰化が知られている」と図鑑にも記載されている。昭和40年代以降には全国的に大繁殖するようになった。日本生態学会によって日本の侵略的外来種ワースト100に選ばれているという。

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 11時にJR館山駅に到着する。駅前の人気パン屋、ナカパンこと「中村屋」でピーナッツクリームをチェック。昨日、子どもと一緒に遊びに来ていたMにぜひ買ってきてくれと頼まれたので帰りに買うつもりで在庫を確認する。で、そのまま線路沿いにぶらぶら歩いていくとレストラン、「コンコルド」に到着。扉の前にたつとなかからいい音が聴こえてくる。なかに入る。店主の菅原さん手作りの真空管アンプを通してマイルス・デイビスとキャノンボール・アダレイのAUTUMN LEAVESがじつに柔らかな音で鳴っていた。

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 私が口開けの客のようでカウンターに腰かけ、店主の菅原さんと少々おしゃべり。どうやらこの人は真空管アンプの世界では知らない人がいないほどの有名人で、しばらくしてからぞくぞく店に入ってくる客のほとんどが真空管アンプに夢中の様子。訊けばみなさん、名古屋、浜松からなど遠方からの人が多く、会話の内容もマニアックで門外漢の私にはチンプンカンプン。が、菅原さんのお話も楽しく、豚肉でつくってあるハンバーグもはんぺんのように軽く、ヘルシーな感じで美味しかった。また再訪したい。

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 さて、JR館山駅から千葉方面に一駅戻って那古船形駅に到着。1時過ぎに本日の目的、館山博物館主催の「わたしの町の歴史探訪 第31回船形地区」に参加するため、集合会場の船形小学校に向う。菅原さんも言っていたように昭和の香りがするちょっといい雰囲気の佇まいの小学校だ。ぞくぞくと参加者が集合する。その数、約50名ほどで人気のほどがうかがえる。さっそく博物館の学芸員の案内と解説で歴史探訪がスタートする。

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 歩きはじめてすぐ、住宅地のなかに小さな柳塚波切不動尊なる建物があって今日が縁日だったそうだが、行事はすでにすんでしまったとのこと。それにしても、日常的に小さな信仰がこうして生きているのを目の当たりにすると、この地区の歴史がいかに地域の住民に根付いているのかがよくわかる。右上の写真は岩船地蔵尊、石でつくった船に乗っている。はじめは念仏をして疫病除けを祈願する信仰だったが、そのうち大漁祈願や海上安全が祈られ、新造船の安全祈願や船酔い防止の祈願に変わっていったといわれる。うしろには小さな石が積んであり、船に乗る際に一つここから石を持って行き、無事に帰ってくることができたら2個にして返す習慣があるという。

 右中に写っている本堂は浄土宗のお寺で光勝山西行寺という。その昔、西行法師の妻、「呉葉の前」が夫を探して船形に来て死んだあと、里人が葬ってその塚に柳を植えたので、この地を柳塚といい、後日訪れた西行がこれを聞いて西行寺を建てたという伝説がある。寺の裏山には船形城の跡が残っているという。

 槇の生垣のある細い道をしばらく進み、大福寺へ(下左が本堂で右は上方に崖観音が見えている)。真言宗のお寺で、正式には船形山大福寺という。境内に元禄16年(1703)の大地震の津波で犠牲になった、摂津西宮(兵庫県西宮市)の人々の供養塔がある。高野山の木食観上が正面の字を書いている、文政5年(1822)の弘法大師供養塔にも海難事故の被災者と考えられる人々の名がある。

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 崖観音の本尊、十一面観音立像を急な石段を上って拝観する。平安時代の作とのことで海上から見やすく崖に直接彫り込んである。堂が張り出すように作られたのは江戸時代の元禄地震の復興のときで、関東大震災後も同じように再建されたという。堂から館山湾が町並みを見下ろすかのように眺められる。だいぶ前、Nさんときたときはキラキラと鏡のように海面が輝いていたがあいにく今日は曇り空のせいか海面もどんよりとして見える。

 崖観音にならんでいる諏訪神社が船形地区の総鎮守として、住民の氏神として崇められているという。境内奥には古峰神社があり、狛犬は安政2年(1855)、元名村の名石工武田石翁の傑作でどことなく表情も凡庸とはしていない凛々しさを感じる。

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 祭りの際には下の浜から砂を手にもって127段ある急な石段を一気に駆け上り、拝殿に捧げるそうで一度見てみたい気がする。私たちはその石段を慎重に下り、船形学園の奥にある渋沢栄一磨崖碑を見にいく。学園は明治42年に東京市養育院安房分院として開設されたが、それを記念して大正6年に建設された。高さ10m、幅6mの大きさ。左下の白い部分は防空壕の穴のあと。

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 さて、浜辺にでるが、小雨がパラリときた。で、岩が滑りやすいということで旧丸山公園跡をパスしてそのまま船形港にむけてぶらぶらと潮の香りを嗅ぎながら海岸沿いを散策。磯崎湊とよばれていた場所に江戸時代末の安政2年につくられた堤防をみる。関東大震災で現在の場所まで上がったとの説明がある。さらにすすむと正木清一郎胸像のある場所につく。船形村最後の名主正木貞蔵の長男で、船形町長を長く務め、千葉県の水産事業の発展に尽くし、水産翁と呼ばれたと説明がある。

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 さて、船形の歴史探訪もいよいよラスト。スタートした船形小学校近くの道路沿いにある、庚申塔群につき解説を聞く。享保13年(1728)、文政4年(1821)など江戸時代の庚申塔が7基あって、手前には明治2年の手水石がある。で、スタート地点に戻ったのが4時少し過ぎだったが参加した皆さんは楽しそうだった。地元の人が多かったようだが、なるほど探せば身近に歴史の詰った場所がたくさん存在をしているもんだと感心をした。私の住んでいる近くにも掘り起こせば歴史の詰まった場所が存在しているにちがいない。知的好奇心を満足させられた一日だった。

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 PS:ちなみにWEBを参照すると庚申信仰についてこう説明している。 

 【庚申信仰は歴史が古く8世紀末には「守庚申(しゅこうしん)」と呼ばれる行事が始まっていたと言われています。そもそも庚申信仰は中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰と言われています。

 その三尸説とは、中国の道教の教えによると、人中に潜む「三尸の虫(上尸=頭、中尸=腹、下尸=足)は、庚申(かのえさる)の夜、人が眠りにつくと天に昇り天帝にその罪を告げ、天帝は罪の軽重に応じてその人の寿命を決めていくといわれています。そこで長生きを願う人々は、庚申の夜は眠らずに夜籠して身を慎んだといいます。

 どの庚申塔も塔面に刻まれた像は版で押したように同じものです。その塔面の像をイラストで示すと下記のような配置になっています。

庚申塔のイラスト図

 中央に立つ像は青面金剛(しょうめんこんごう)で本来奇病を流行らす鬼神で猿の化身ともいわれています。「三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に三叉戟(三又になった矛のような法具)、棒、法輪、羂索(綱)を持ち、足下に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う」姿が一般的なようです。

 そして雌雄一対の鶏が刻まれています。これはこれは申(さる)の次ぎの日、すなわち酉の日になるまで籠るからだという説と、夜を徹して朝に鶏の声を聞くまで念仏を唱えるからだという説もあるようです。

 邪鬼の下に三猿が刻まれていますが、三猿を三尸の虫になぞらえ、「見ざる・言わざる・聞かざる」で天帝に罪を報告させない、という意味へこじつけていったようです】

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アリストテレス

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 まだ高校生だったころ、2歳違いの従兄のMOちゃんが大学へ通学のために池袋にアパートを借りた。遊びに来いというので部屋を訪れたとき、テーブルに読みかけの文庫本が目についた。手にとってみると、アリストテレスの「形而上学」という本だった。ページをめくってみたがなにやらむずかしそうなのでテーブルに戻したが、さすがにMOちゃん、頭がいいんだと感心をした覚えがある。

 というのも、私はこのMOちゃんと歳もちかいこともあって小さいころから仲がよかった。ときには夜遅くまでMOちゃんの勉強部屋で話し込んだこともあったりした。話題はそれこそ森羅万象にわたったが、中学生の後半あたりからは宇宙の神秘とか、精神の不思議とかについてよく聞かされた。今まで考えたことのない話題に夢中になり、私はそれまでの自分の世界がそのことによって広がるのを感じていた。

 私も大学生になり、MOちゃんの読んでいた、「形而上学」にチャレンジしたが途中放棄をしては再読、を数回繰り返してなんとか完読した。とはいえ、内容を理解したわけでもなくチンプンカンプンのまま今日まできてしまっている。そのコンプレックスがときどき私を哲学書にむかわせるのかもしれない。しかし本を精読する忍耐力や、集中力がだいぶ欠落してると感じる現在ではいきおい読みやすい手軽なものがいい。先日の3日間携行したのが、「ハイデガー拾い読み」(木田元著)だ。多少精読のための集中は必要だが、解りやすく興味深い内容にあっという間に完読した。

 ウィキペディアによると、【アリストテレスの学問体系は、「論理学」をあらゆる学問成果を手に入れるための「道具」(organon)であるとしたうえで、「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ボイエンス)に三分し、理論学を「自然学」、「形而上学」、実践学を「政治学」、「倫理学」、制作学を「詩学」に分類した】とある。超入門者編だが私のブログは個人的備忘録でもあるのでかまわずすすめる。

 で、本のなかからちょっぴり抜き書き。形而上学について木田本ではまず語義について、【〈形而上学〉という日本語は、明治の初めに中国の『易経』の「形而上者謂之道、形而下者謂之器」(かたちよりうえなりたるものはこれをみちといいかたちよりしたなるものはこれをうつわという)を参考にして、形ある自然を超えたもの、形あるものより上の形なきものを論ずる学問という意味でつくられた語訳である。〈超自然学〉という意味だとお考えいただきたい。】と説明がある。

 【形而上学としての哲学=先ほどもふれたように、ハイデガーはこの〈形而上学〉と〈哲学〉と〈存在論〉をほとんど同義に使っている。そして、それはプラトンのもとではじまった特有の知なのである。それを端的に裏付ける彼の発信がある。「哲学の終わりと思惟の使命」という晩年の講義(1966年、『思索という事象へ』所収)があるが、そこで彼は、「哲学とは形而上学である」と定義した上で、次のように述べている。

『哲学の歴史全体を通じて、プラトンの思考が形を変えながら支配しつづけている。形而上学とはプラトニズムのことである。ニーチェは自分の哲学を転倒されたプラトニズムと呼ぶ。すでにマルクスによって逐行された形而上学の逆転によって、哲学は極限の可能性にゆきついた。』

 要するに、ハイデガーの考えでは、〈哲学〉とはプラトンのもとではじまった知の形式であり、プラトンの〈イデア論〉からうかがわれるように、生成消滅する〈自然〉の外に〈イデア〉のような永遠に変わることのない存在、つまり超自然的な原理を設定し、それを参照にしつつ自然を見る〈超自然学〉つまり〈形而上学〉だということになる。その意味で、〈哲学〉はプラトニズムなのである。そして「存在の歴史としての形而上学」とは、そうした〈形而上学〉つまり〈哲学〉の支配が存在の歴史の一時期を画するということであろう。では、そうした形而上学の歴史はどのようにしてはじまるのか】

 まあね、書きうつしていてナニ書いてんだか私もわからなくなってくるが、よく読めばなるほどそうかという発見に満ちたチョイ興奮の読書体験だった。MOちゃん、少しわかったよ(笑)。

 ちなみにMOちゃんはそれから10年後に若くして亡くなってしまった。葬式のとき、私は焼香台のまえで長い時間をかけてMOちゃんにお別れを告げた。もっと話したいことや聞きたいことがいっぱいあったのに悲しかった。背後の参列者たちのすすり泣く声がひときわ大きく聞こえてきた。みなさん、私とMOちゃんが仲良かったことを知っている人たちばかりだった。MOちゃん、また話がしたいよ。私もいつかそっちへいく。そしたらいっぱい話をしようね。



メトロポリタン美術館展

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 「この店のおすすめはなんですか」と係の人に訊くと、「スフレです。少しお時間がかかりますが」との答え。で、今日はコーヒーとスフレの朝食にした。六本木ヒルズ、けやき坂テラスのカフェ、「ローダーデール」のオープンエアのテーブルをチョイスしたが、戸外型暖房機のせいかポカポカと暖かい。木漏れ日のさすテーブルに運ばれてきたシナモンとアップルをトッピングしたスフレは小型だがジューシーな仕上がりで絶品。ゆっくりとした時間の流れる申し分のない朝食だった。

 浅草に移動する。東京映画祭が開催中の知的でシックなヒルズとはまったく違う雰囲気の光景が雷門に展開していた。とにかく、平日にもかかわらず観光客のにぎわいがスゴイ。いつのまにか結構な数に増えていた観光人力車が客を乗せてあちこちを走りまわっている。たしかに浅草寺界隈は案内するに不自由はしない。観光名所がいたる個所に存在していて、美味しい店や土産物屋も多いのだ。六区内の演芸場ホールや元フランス座の東洋館などは数十人が入場待ちで行列を作っている。どんな有名人がでるのかちょっと知りたくて、「ご案内」をみてみたがほとんど知らない芸人ばかりだ。わずかに知っているのが、牧伸二、マンガ太郎で、演芸場のほうは落語家の2,3人のみだった。ロック座もポスターをみたが、いまどきストリップでもないだろう、という気がした。

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 歩いていたらお腹が減った。時間はちょうど12時になる。かるくラーメンでも食べようと野口五郎がなにかに、この店の味噌ラーメンが日本一と紹介していたのを思いだし、西浅草の「来集軒」の暖簾をくぐる。ここの味噌ラーメン、濃いのにあっさりとしてクセになりそう。芸能人の色紙多い。

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 食後は定番のコーヒー。昭和の喫茶店を絵にかいたような店、ビューホテル裏の「ピーター」に入る。老女一人で切り盛りしているのだがほぼ満席に近い。入り口で立っていたら常連さんか、空席を教えてくれる。店内は香ばしいカレーのいい匂いが漂っている。常盤新平の書いた、「東京の小さな喫茶店・再訪」には、【この店のもう一つの名物がカレーライスだ。コンソメスープと福神漬けではなく、普通の漬物がつく。味は辛めでご飯の量は多い。確かにおいしい。誰が言ったか、ここのカレーは東京 B級グルメのトップランクだという。「カレーは独学で思考錯誤の末に作ったの。かならず7時間以上は煮込みます。夜の8時から12時まで煮込んで、また朝の8時から12時まで煮込んだりね。よく作り方を教えてと頼まれるけど、こればかりは教えられないんです」】とある。そして、【ドアを開けるとまず正面の壁一面に描かれた人物がに驚かされる。色とりどりで描かれた人物たちは、全員浅草を舞台にして活躍した芸人や映画俳優たちだ。エノケンやエンタツ、アチャコ、デンスケ、嵐勘十郎、ターキー、そして黄金バット。よく見ると喜劇王チャプリンまでいる。これは黄金バットの作者で紙芝居も手掛けた漫画家の加太こうじ氏が描いた】とも。

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 で、本日のお目当ては東京都美術館で開催の、「メトロポリタン美術館展」だ。上野公園に移動するがあいかわらずの路上パフォーマンスに人が集まっている。行楽の秋日和の一日を皆さん楽しんでいるように見受けられる。7月にフェルメールを観に来たときの気候とはまったく違い、戸外にいるのが快適に感じる。

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 さてさて、メトロポリタン美術館展だ。出展作品133点を7つのカテゴリーに分類している。第1章、理想化された自然。第2章、自然のなかの人々。第3章、動物たち。第4章、草花と庭。第5章、カメラが捉えた自然。第6章、大地と空。第7章、水の世界。数点の作品は現地で観た記憶があるが、やはり圧巻はゴッホの「糸杉」だろう。この絵を観れば実物を鑑賞することの意味がよくわかるはず。糸杉は南仏の古い街、アルルの郊外に多く、冬から春に吹き荒れる季節風のミストラルを防ぐために植えられているが、ゴッホの絵の驚くべき筆づかい、ぶ厚く重なりせめぎ合う絵具の力強さ。

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 青空と丘陵を背に屹立する堂々たる二本の糸杉。天にむかって真っ直ぐに伸びる木の幹はほとんど見えない。枝と葉は揺らめき、渦を巻いている。黒と緑、そして僅かな黄色が激しくぶつかり合い絡み合っている。その厚塗り、糸杉の前にはイバラと藪がギラギラと輝いている。背景の山々の稜線が、縦に伸びる糸杉と対照をなしている。入道雲が湧き立つ空にはポツンと三日月が・・・・。描かれてから120年を経ても瑞々しさを保つ絵肌は、観る側に迫り、圧倒する。まるでゴッホがこの木と同化しているかのようだ。サン・レミの病院で向日葵を描ききった後、糸杉に夢中になり後年ゴッホの傑作と呼ばれた作品の多くはこの年に描かれている。


 弟のテオに向けた手紙に、「線といい、比率といい、美しくまるでエジプトのオベリスクのようだ」と書いている。ゴッホがこの絵でとりわけ苦心したのが黒だったと言われる。その深い黒を活かすために緑と黄色がねじり合う、そして厚塗りの極みがまるで苦悩しながら高みを目指すゴッホ自身のようにも感じられる。荒ぶるように、身もだえするように、燃盛る炎のように、生きる為の自画像ようにも感じられる。
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 左から、ルノアールの「浜辺の人物」、ミレーの「麦穂の山・秋」、エドワード・ホッパー「トゥーライツの灯台」、ターナーの「ヴェネツイア、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂の前廊から望む」、ホーマーの「月光、ウッドアイランド灯台」、アンリ・ルソーの「ピエーヴル川の堤、ビセートル付近」。


 美術館をでて、本日の締めのコーヒーを代々木八幡の、「フグレントウキョウ」でと思い向った。BRUTUSの記事に、【住宅地の一角に立つ、戸建て住居の扉を開ければ、そこはノルウエーだった・・・しかも、1960年代の。店内をまずはご覧あれ。家具、調度品から照明に至るまで、50から60年北欧アンティークが溢れかえる店内では、外国人と日本人の男女が入り乱れ、コーヒー片手にリラックス。東京・渋谷のカフェ&バー(フグレントウキョウ)は、店構えこそオールドヴィンテージなれど、コーヒーカルチャー的には「世界の最前線」と呼んで差し支えない店だ。】とあった。この店、今年の5月にオープン、ノルウエーのオスロにある本店は「飛行機に乗ってまで試しに行く価値のある」とNYタイムスで絶賛された。

 昼の西浅草のレトロな喫茶店、「ピーター」のコーヒーが340円、いま最も旬の北欧からのカフェ、「フグレントウキョウ」のコーヒーが350円、対照的な2軒をチェックしたわけだが、味にかぎっていえば10円ほどの違いすら感じない同じレベルだったのがうれしい。私はそう感じたがあなたならどう感じるのだろうか。

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 四ツ谷駅の、「PAUL」でコーヒーとタルト・シュクレ(ブリオッシュ生地に卵、砂糖、バターをトッピングして焼きあげた)の朝食。シャンソンの流れる店内、写真のように朝日の差し込む広い窓から迎賓館方面がのぞめて気持ちがいい。交差点の角にキリスト教書籍と用具の店舗、「サン・パウロ」が目に入る。高校生だったころ、KKがこの店で買ったメダイをプレゼントしてくれた。カトリックでいうメダイとは、主イエズス、聖母マリア、いろいろな聖人や天使の像が鋳造されたメダルのこと。わたすときにKKは、T君の守護神は大天使ガブリエルだからね、と教えてくれたが自分と同じ価値観を共有したかったのかもしれない。

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 さて、今日は町田で母親を囲んでの食事会。一年に一回外食店で家族が集まれるようにと考えたホームの企画だ。弟二人と甥とその子供、義妹の合計7人でなごやかに会食。訊けば母親の体調も悪くないのでまずは安心。会が終わり、ホームへ引き上げる母親と別れて実家に6人で向う。2時間ほど皆でおしゃべりしてお開き。次回は新年会だな、ということになり私は次男の車で駅まで送ってもらう。

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 小田急線から京王線に乗り換えて初台駅で下車。東京オペラシティで開催中の、「篠山紀信展」にいく。テレビのニュースでご覧になった方もいらっしゃるだろうが、なるほど壁面いっぱいに拡大された大きな写真から放たれる圧倒的なエネルギーに衝撃を受ける。タイトル通り、これは写真力を感じる。展示の仕方も工夫がある。たとえば最初の部屋(テーマはGOD)に片手をあげてオッといわんばかりの人懐こい笑顔を見せている渥美清の対面に、三島由紀夫の日本刀を構えたモノクロ写真を配置して弛緩と緊張の両面に部屋を支配させている。

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 〈SPECTACLE〉の部屋ではディズニーランドの着ぐるみのミッキーマウスやグーフィーたちと、歌舞伎座に居並ぶ隈取りの化粧をした歌舞伎役者の面々を対比させている。タイトルに、「私たちを異次元に連れ出す夢の世界」とキャプションがついている。なるほどネ。

 〈BODY〉の部屋でもモノクロで隠微な大人の浅丘るり子のヌードと、弾けるような18歳の宮沢りえのヌードが対比していて(もちろん、そう感じているのは私なのであって作者の意図は別かもしれないが)ふーん、そう来るかとヌードの必然性が腑に落ちてわくわくさせてくれる。もっくんこと本木雅弘を撮ったモノクロ写真もナイーブさと若さを感じさせて文句なく美しい。

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 それやこれやの作品いろいろ、70年代の百恵、80年代の聖子というイコンともいえるそれらを全部含めて〈なんだかわかんないけど超スゲェー!〉も感想としてアリだと思う。写真の神様がその瞬間降りてきてシャッターを切った、そう感じさせる写真が多かった。

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 集中して見入っていたら、神保町へ行くぞ、カレーを食べるぞ、と胃袋に催促された気がした。雨が降ってきていた。地下鉄を降りてすぐ、レストラン共栄堂に続く階段を降りていく。前出の平松洋子の本にはこう書いてある。【伝説のスマトラカレーを初めて味わったのは34年前。それが神保町に足を踏み入れた最初の日だった。雛は、はじめて口に餌を運んでくれた存在を親鳥と慕い続けるというけれど、わたしにとって「共栄堂」のスマトラカレーも同じようなものかもしれない。焼きりんごが登場するのは10月。すると毎年「共栄堂」が気になりはじめる】

 見るとはなしに見ていたら、目の前の席に座ったカップルの若い女性は運ばれてきたスマトラカレーに、「わーっ、おいしい」と彼氏との会話の合間に5回は言ったと思う。彼氏に連れてきてもらったのだろうが、付き合い始めのころなんてみんなこんな調子でかわいいものなのだ。熟年のカップルが黙々と食事をしている光景にもよく出会うが、いったいいつころから会話のない食事に変化するのだろう。人によって差はあるのだろうが、ケンカでもしていないかぎり会話のあるカップルでいて欲しい、大きなお世話だが(笑)。

 ちなみに平松洋子さんお気に入りの焼きりんごだが、私には甘過ぎていまいち。シナモンスティックがあったらよかったかもしれない。ポークカレーのほうはスパイシーでさっぱりとしていておいしかった。カップルだったら私も、「わーっ、おいしい」と1回は声をあげると思う。

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目黒通りの家具屋さん

 駅からそとにでると聖イグナチオ教会の鐘が鳴った。昼になっていた。四谷見附の交差点から見上げると、抜けるような青空が広がりヨーロッパのどこかの都市にいるような錯覚にとらわれる。右手、蔦のからまる鉄柵のなかに煉瓦の建物、「ニコラ・バレ修道院」がみえた。高校生のころ、学校帰りの途中K神父の用事で何回か訪れたことがある。当時ボーイスカウト活動をしていた私たちの月一回発行のガリ版刷り新聞に掲載の原稿を受け取りに行ったのだ。原稿用紙のマス目に書き込まれたていねいな文字を見るたび、少しずつ感化されて私の書く字も似てきた。できるだけ同じように書こうとマネしていたことなどをなつかしさとともに思いだした。

 昼食はちかくの中華料理店、「嘉賓」のカキソース和えソバとおかゆのランチセットにした。雑誌、「dancyu」の〈人生最後の一食。1000円で何を食べるか?〉で中尾彬が、「この和えソバとお粥が最後の一食なら後悔はないね」といっていたのを思いだしたからだが、ほかにも開高健はじめ多くの著名人が訪れた店だ。平松洋子の、「焼き餃子と名画座」にも登場する。

 【「牡蠣ソース和えそば」は、お粥と並んでこの店の名物である。ゆでたての細い麺を牡蠣ソース、つまりオイスターソースでさっと和えてあるだけ。具はなにもはいっていない広東の手軽な味だ。二十一のころは初めての意外な味に夢中になったけれど、わたしはあれから何度となく香港でおなじそばを食べてきた。お粥だけではなかった。広東料理のなかでもとびきりシンプルな気に入りのそばを初めて味わったのも、そうか、この「嘉賓」だったのだ。あのころと変わらない皿のうえで歳月が重なり合ったり、ずれたり、揺れたり、わたしは急に空腹を覚えた】と書いている。

 運ばれてきたカキソース和えそばを口に運んだ。なるほど、絶妙な塩梅のオイスターソースに、みじん切りの生姜とねぎが硬めの極細麺の味を引きたてている。お粥と交互に食べるとお粥のほうが濃厚に感じるシンプルさであっという間に完食する。昼時とあって近くのサラリーマンで店内満席。私がデジとりだしてパチリとやったら、隣席の女性客も携帯とりだしパチリとやっていた。ところで私の場合、最後になにを食べますか?と訊かれたらなににしようか迷うところ。まだ思いつかないが、あなたなら最後に口にしたい料理はなんですか?

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 満足して店をでた。食後のコーヒーが飲みたいのでちかくの「いーぐる」の階段を下りる。店内はオジサン客が5人ほど。ジャズを聴きにきているので皆さんひとりだがそれぞれ自分の世界にひたっている感じがした。おいしい食事のあとにコーヒーといい音で聴くジャズの組み合わせほど幸せなものはない。しばしうっとりタイムとばかりに私は目を閉じる。3枚目のCD、カサンドラ・ウィルソンの「トラヴェリング・マイルス」を聴き終ってから腰を上げた。

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 目黒に移動して久しぶりにあちこちのインテリアショップをぶらぶらする。イギリスアンティーク&カフェの「ジオ・グラフィカ」と家具の「グリーン・ゲイブルズ」の中間あたりに「GMT」なるシリアル専門店がオープンしていたのでなかに入ってみる。狭い店内だが各種シリアルがそろっていてイートインも可能とのこと。さっそくメープルピスタチオのグラノーラにミルクとアイスクリームをトッピングして(400円)カップで試食してみたがイケる。その場で購入はしなかったが、ストックしてある自宅のグラノーラに今度アイスクリームをトッピングしてみようかなどと思った。

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 「ムーディーズ」、「コルト」、「シャンブルドニーム」、「アムス」、「カーフ」、「アクメ」とショップめぐりを続ける。途中の「頑固タコ」でひっかかり、下のように店頭のベンチで買い喰する。オーダーはいつものネギ蛸で、カリッと揚げたタコ焼きに長ネギと削り節のトッピング、醤油のたれがかかっている。熱々を頬張る。そとはカリッとなかはとろーりというお約束通りで満足する。ここ芸能人の色紙多し。

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 大鳥神社の境内に入ってお参り。やはり高校生のころ、最初の相手だったKKが米人だった父親の都合でアメリカに去ってしまい、そのあとできた二人目の彼女がこの神社のすぐ裏のアパートに姉と一緒に住んでいた。ちょうどこんな夕暮れどきに訪ねていくと、姉を紹介されて3人でしばらくおしゃべりをしたり、テレビを観たりして過ごした。すると来日していたベンチャーズのコンサート模様を画面が映し出し、前日そのコンサートを聴きにいっていた私は少し興奮気味に、しかし少し自慢げにそのときの話をしながら3人で画面に見入ってしまった。なつかしい思い出だ(笑)。

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 少し歩き疲れた。本日の締めを美味しいコーヒーで終わりたい。恵比寿駅近くの「猿田彦珈琲」でレギュラーコーヒーをチョイス。フレンドリー(店のコンセプトなのか最近のはやりなのか)な店員さんに訊くと、「出雲の猿田彦神社の公認なんです。日本でも珍しいですよね」とチョッピリ自慢の様子で話してくれた。メニューはバラエティこそあれ、コーヒーオンリーなのでプラスアルファの付加価値として会話のキャッチボールがあるのだろう。美味しいコーヒーに満足して駅ビル、アトレの有隣堂でしばし新刊本のチェック。時間のたつのを忘れる。

目指せ完読

 秋晴れの土曜日、終日読書。「内と外からの夏目漱石」(平川祐弘著)の返却期間が迫っているので492ページの完読を目指して本日はがんばることに。朝、ベッドのなかで昨夜のテレビ番組、「朝まで生テレビ」の録画を観終わってからシャワーを浴びる。洗濯機をまわしてからトーストにピーナッツペーストをつけて紅茶で朝食を簡単にすませ、陽のあたっているベランダで洗濯物を干す。いつものように紅茶を飲みながらガーデンチェアでしばしまったりタイム。

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 昼になり、CRISTELの鍋で湯をわかしスパゲッティをゆでる。マ・マーのミートソースをからめて皿に盛る。たっぷりとタバスコとパルメザンチーズを振りかけて食べたが美味しかった。付け合わせはポテトサラダにしたが、この時期のジャガイモが新鮮だったのかいままで作った中でいちばん成功した味と感じた。2日分作ったのだが、結局明日の分も全部食べてしまった。

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 スパゲッティを載せた皿は10年前のニューヨーク~ボストンひとり旅の途中立ち寄ったマサチューセッツのプリマスで求めたもの。中央にメイフラワー号が描かれていて裏にイギリスのスタッフォードシャーでつくってマサチューセッツに輸入したとプリントされている。土産物屋で買ったものなので御大層なものではないのだが、25㎝のサイズは使い勝手がいいので結構普段使いに重宝している。

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 ちなみにこのプリマスにはメイフラワー号のレプリカが横付けされていて見学することができる。いくらか入場料が必要だったのでこのときは乗船はしなかったが、ちかくの記念ミュージアムは見学した。港には入植者が初めてアメリカ大陸を踏んだとされる記念の石が「プリマスロック」として展示されていたのを思い出す。で、以下に他のHPからの引用でチョイ歴史のお勉強。

 【ところで、キリスト教の歴史にも、幾多の革新と反動の変遷があった。その最も大きなものは、ルターに始まる改革と、その反改革の歴史であろう。その影響は、イギリスにも及び、やがて、カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)を折衷した、独自の「イギリス国教会」が成立する。これに対し、新旧いずれからも強い不満と批判が寄せられるが、プロテスタントの立場から、国教会の徹底改革を唱えたのが、「ピューリタン(清教徒)」と呼ばれる人々であった。

 「ピューリタン」という呼称には、異端としての侮蔑の意味あいも含まれていたようだが、本来は、国教会を純化(ピューリファイ)するよう求めたところがら、呼ばれるようになったという。彼らの目には、カトリックも、教会の権威主義と世俗化に流れ、また、イギリス国教会も、中途半端な改革にとどまり、どちらも堕落した宗教の姿としか映らなかった。そこで彼らは、真剣に国教会を糾弾し、批判を繰り返した。これに対し、イギリス王権は、様々な形で圧力・迫害を加え続けた。

 あるピューリタンの一団が、信教の自由を求め、故国イギリスを離れた。そして宗教上の寛容を認めているオランダに移住するが、深刻な生活苦にみまわれ、子弟の教育にも苦慮するようになる。たまたま、アメリカ植民地の話を耳にした彼らは、新大陸への移住を決意する。そして1620年9月、(今から320年前)帆船メイフラワー号に乗って、大西洋を船出した。彼らこそ、ピューリタンとして初めてアメリカに植民地を開いた、かの「ピルグリム・ファーザーズ」であった。

 メイフラワi号に乗ったのは、乗客102人、(内29人が女性)乗員47人。そのうち、宗教的理想を求めて乗船したのは、40人足らずであったようだ。航海は、困難を極めた。だが、約二ヶ月後、船は新大陸に到着。しかしそこは、当初、目指していた現在のニューヨーク付近とはほど遠い、北方のニューイングランドであった。

 ところで、この移民団のリーダーの一人で、当時30歳であったウィリアム・ブラッドフォードは、このようにつづっている。「かくも大海原を押し渡り、幾多の苦難を乗り越え来たるに、出迎える友もなく、波風に打たれし身体をいたわり休める宿もなく、よるべき家も、ましてや町もなく・・・、見渡す限りは恐ろしく淋しき荒野にて、(中略)・・・夏は去り、万物はすざまじき形相にて立ちはだかりき、・・・」(関元著「アメリカの原像」毎日新聞社)

 見渡す限りの荒野に降り立った彼らは、冬を迎える。一団は、厳寒と病気に苦しんだ。そして春までに半数以上が死亡し、生き残ったのは、わずか50人ほどであった。だが、ピューリタンは屈しなかった。いかなる厳しい環境にあっても、胸中には、イギリスで達成できなかった理想社会建設への情熱が、赤々と燃えさかっていた。彼らは、ひたすら働き、努力を重ね、苦境を乗り越えた。そして、アメリカ建設の祖として、歴史にその名をとどめるのである。

 自由の天地アメリカに、我が理想の都を建設したいピューリタンは、の確固たる信念に生涯をかけ、命をも惜しまなかった。教義の高低浅深はともあれ、彼らなりの「精神の戦い」は、今なお確かな足跡を残しているといえよう。とくに、自治の市民政体を組織し、法の制定と遵守を約す「メイフラワー誓約書」は、民主的な契約社会のモデルを示し、その後のアメリカ社会の建設に少なからぬ影響を及ぼしていく。また、ピューリタンが創立したアメリカ最古の大学ハーバード大学は、アメリカの「知性の府」として著名だが、これも彼らが残した尊い遺産の一つといえよう。】
     
 さて夕方になり気分をチェンジとばかりにいつものスタバに移動して読書を続ける。読みすすめるうちに漱石の全集読破の気分が高まってしまっていつか挑戦したい、と思わせる。知的興奮を味わえる労作だ。ところでさっきからとなりの席で10代の若いカップルが楽しそうにいちゃついている。気にはならなかったが、彼らが帰ったあとの次に22,3くらいの女性がその空いた席に座った。ふとページから目をあげた私と目があった彼女が、(えっ、どこかでお会いしましたっけ?)という頬笑みの表情を口元にただよわせて私を見つめた。

 このあたりでは見かけるのがめずらしいほどの美形で、おもわず吸い込まれるような愛くるしさに胸がドキーンと鳴った。が、残念①なことに心当たりがない。頭のなかの過去のファイルをあわてて総動員してみたがまったくのノーヒット。ここで不確かな&曖昧な頬笑みを返しても、変な&不気味なオヤジと思われるのが関の山なので、何気ない目つきで窓の外に目を(あたかも関心がない体を装って)そらした。

 たぶんそうかもしれないと思ったが、残念②なことに出来上がったコーヒーをもってカウンターからつれの男が彼女のとなりに座った。ナンダ、やっぱりそうかと急速に彼女にたいする関心が醒めるのを感じた。女と男は釣り合いのとれた感じがしてそれが救いだったが、やがて男は女の膝に手をおきさり気なくなでている様子。残念③なことに女は嫌がるふうでもなく、静かに男のなすままにさせている。

 女が話す声を聞いたが、可憐で爽やか、まるで鈴が転がるようで耳に心地よい。鬱になったの、と言ってきたHに声がそっくりだ。雰囲気も似ている。病院でもらった薬を飲んでいるのと言っていたが、その後どうしただろうか。明日あたりメールしてみよう、そう思いながら隣席の彼女もそのうち鬱になるのだろうか、などととりとめのないことを考えた。

 6時過ぎにやっと読了する。気になるページに付箋をした。家に戻ってその部分をコピーしよう、と思いソファから腰を上げた。

復習

 御成り街道沿いの蕎麦屋、「はずき」で新蕎麦を食べる。昼時だったので店内満席だ。ちょっと太めの田舎蕎麦は腰もあって美味しい。食後、店の外にでて裏の細い道を車で進んだ。道は両側を杉林に囲まれた暗い森のなかに続いている。しばらく進んだところで車をとめて外にでる。

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 空は雲ひとつなく蒼く高く広がっている。しかし森のなかはほの暗く、しっとりとした空気感につつまれている。私はここで一昨日のキノコの復習をしようと思ったのだ。杉林のなかなのだ、きっとスギエダタケがあるはず。枝打ちの終わった杉の木の下に放置してあった杉の葉、枯れ枝上に点々と生える2cmほどの小さな白色のキノコ。こんなこともあるかと思い、長靴を積んできたのだ。さっそく森のなかに足を踏み入れ、目を凝らす。と、私がにらんだ通りすぐにスギエダタケが見つかる。

 しばし森のなかを逍遥する。もちろん、むやみやたらに歩き回っていると迷子になる可能性もあるので、車をとめた場所を確認しつつ奥へ進む。もちろん、林床に生えるキノコを見つけながらだ。15分ほど進んでいくと急に明るく開けた場所にでた。ここも調整池のようで、それまでの暗い森のなかとは違った葦の広がる開放感にホッとした気分になる。ここがどこだかわからないので、Uターンをしていまきた森の外側の農道を歩いて車まで戻る。約1時間森のなかにいて収穫は下のとおりだった。収穫したスギエダタケは夕食のケンチン汁に入れて美味しくいただいた。

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 名前のわからないキノコもたくさん採れたので、図鑑で調べてみた。が、写真を見ただけではよくわからない。あたりまえだが、私は一昨日のキノコ狩りで知ったスギエダタケのみを食べ、他のキノコはパスした。この年齢になれば慎重になるのが大事なのだ(笑)。ちなみに図鑑をみるとスギエダタケについてこう書いてある。「小型ながら歯ざわり、舌ざわりは特に優れ、スギヒラタケとともにスギ林を代表する優秀な食用キノコである。脂肪質から淡白な料理までいずれにも向くキノコ。汁の実、煮物、あえ物、特に大根おろしあえは天下一品。軽く湯通しして調理する。」

スギエダタケ

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 今日のキノコ狩りに参加するために昨日長靴を買いに外にでた。そのときの秋空がとても美しくてついパチリとデジに収めた。いまさらながらここ数日、秋空の見事な様に感心する。きっと空をながめる余裕がいままであまりなかったのかもしれない。それとも最近の気象現象が変化したのだろうか、とにかく魅入ってしまうほど美しい。

 さて小雨混じりの今日、買った長靴のおかげで快適にキノコ狩りを楽しめた。先月初めて参加した里山学校だが今回で参加は2回目だ。10時に座講が始まり、今回のテーマであるキノコについていろいろとスライドを使ってお勉強。参加者は総勢13人のシルバー世代で、男3人、女10人という構成。1時間ほどで座講が終わり、キャンプ場広場で用意をしていた例の手作りかまどでふかしたサツマイモを戴く。

 で、スタート。季節がら園内は他の野外観察会も開催されていて結構にぎやかだ。当会の講師の先生は前回と一緒の方で植物にはめちゃくちゃ詳しい。どんな花でもたちどころに名前を教えてもらえる。ただし、キノコについては植物ほどではないとのことだったが、食べて美味しくないキノコについてはとくに知らなくていいと言う。そして20種類ほどのキノコを同定できれば上等で、キノコ名人を名乗ってもいいと言う。そうか、それなら私も20種類くらいまでを目標にしてキノコ博士を目指そうかともチョイ考えたりした(笑)。

 ちなみにここの公園のHPには概要がこう記されている。
 【市の中心部から東南に約18km、緑区土気地区に位置する面積105.8ha、南北2.3km、東西0.8km の市内最大、県内でも有数の規模を誇る千葉市の総合公園です。
 公園の西側は、標高60mから90mの下総台地に連なり、東側は九十九里平野と下総台地を分ける高低差約50mの崖地(海蝕崖)に接しています。展望台(海抜101m)からは、九十九里平野と太平洋の水平線が一望できます。
 公園の一部が県立九十九里自然公園に指定され、良好な自然環境が残されているため、四季を通じて草花や樹木、野鳥や昆虫など多くの種類の植物や生き物が見られます。
 また、平成元年には、わが国を代表する公園の一つとして「日本の都市公園100選」に選定されました。】とあるのでその広さが理解できるかもしれない。

 手入れの行き届いた園内は自然散策にはもってこいで、澄みきった秋の空気がじつに美味しく感じて快適な散策を楽しめる。しかも、指をさしさえすればたちどころにその名前を知ることができるのだ。ひとりだけの山歩きも楽しいのだが、こうしたひとまかせにコースも知識もゆだねたグループでの散策も格別に楽しめる。とくにキノコの類は同定が難しいので、よく知っている人が一緒でないかぎりは採取に迷うことも多いのだ。

 自信があり、採ったこともあるので知っているキノコはイグチの類や、タマゴタケ、ヌメリ杉茸、クリタケ、ハツタケ、キクラゲ、スギタケなどだが、今回はスギエダタケなるキノコを知った。杉林のなかにポツポツと生える白い傘2㎝くらいのキノコで、柄は透けた黄土色。私は長靴のおかげで林床のなかに濡れるのを気にせず歩けたので多く採取できた。

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 とはいえ、山深いキノコ向きの林相とはちがう園内には目ぼしいキノコもあまり見当たらない。スライドで紹介されたキノコは、ナラタケ、アカヤマドリ、コウタケ、チチタケ、チタケ、シシタケ、サクラシメジ、なめこ、ヒラタケ、ウラベニホテイシメジ、アラゲキクラゲ、シャカシメジ、バカマツタケなどだが、そう簡単には目につかない。いきおい参加された人は気を引いた目の前の植物についてあれこれと質問が講師に集中する。

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 ①講師の説明(キクラゲ)に採取する元気のいい参加者
 ②コウタケ
 ③アカメ樫
 ④エビツル
 ⑤園内のアヒル(人に馴れている)
 ⑥黄花アキギリ
 ⑦鯛飯(もち米をせいろで蒸して)
 ⑧鯛のおこわ飯、ケンチン汁、たまご茸のピクルス

 結局園内のキノコ狩り散策は1時間30分ほどで終了。いろいろなキノコを採取したが持ち帰ったのはスギエダタケとキツネノチャブクロで、それらは戻ったキャンプ場広場でつくったケンチン汁の実として味わった。参加者全員でつくった昼のメニューは⑧のとおりだが、前日講師が釣ったという真鯛を炊きこんだおこわ飯は最高の味だった。あまりの美味しさに私は3杯も食べてお腹がいっぱいになった。満足だ(笑)。解散は2時半。皆さん満ち足りた面持ちで帰路に着かれた。

 PS:園内のキャンプ広場には前回と同じようにほかにも若い数グループが炊事&食事を楽しんでいたが、バトミントンを楽しんだりマンドリンかき鳴らして合唱したりしていた。大正昭和の男女交際の若者群像をみるようであまりに健全なその様子にほのぼのとした感情を持ってしまった。都会の繁華街を意味もなくうろついている今様の格好をしたそれとは違う別種の生き物をみた気がした。

秋の野山

 いままでなにも置かなかったベランダに鉢植えを置いてみたら、と思いたち近くのホームセンターに昨日、一昨日と二日間にかけてでかけた。買ったのは土佐ミズキと、アジサイと、紫ススキで、それぞれ別の陶器製の鉢に一緒に買った園芸用の土をつかって植え替えをした。おかげで引っ越し騒動以来なにもなかった我がベランダがチョッピリにぎやかになった。今朝、淹れた紅茶片手にガーデンチェアに腰かけてマッタリとした(笑)。

 そのつながりというわけではないのだが、気分はアウトドアだ。で、今日はちかくの野山に図鑑と、デジカメもってでかけた。家から車を5分も走らせれば里山のなかに調整池なる窪みが現れる。周囲をぐるりと囲んで小さな散歩道があって、そこを図鑑片手にぶらぶらと歩きはじめる。いくつかの小さな植物などの発見があって、ふだん素通りしている道の奥にもたのしみがあることを知った。

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 上からソバナ、ゴンズイ、ホトトギス、あけび、カシワバハグナ、ガマズミなどだがキノコの名前は図鑑がなくて不明だ。よくわからないキノコはドンタッチだ。過去、数回キノコ狩りに参加もしているが採取したキノコのほとんどが食用に不向きと現場のプロに告げられたこともあって、よく知っているキノコ以外は手を出さない主義に徹している。

 ともあれ、思ったよりも豊富な植生に観察のフォーカス次第では楽しい発見に野山は満ちている。明日は3時にチョイとした商用があるのだが、テレビの予報では天気は秋晴れとのこと。それまでの時間を野山で自然観察&散策についやしたいと考えている。

「普天間」交渉秘録

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 新蕎麦の季節。3連休の2日目の今日、おゆみ野の「侘び助」で新蕎麦を堪能する。蕎麦の後はいつものようにコーヒー。借りたまま読みかけになっていた本、「普天間交渉秘録」(守屋武昌著)をもっていつものスタバでいつものようにコーヒー&読書。自宅のソファで読むよりも集中してはかどるのはなぜだろうか。同じような傾向の人たちに交じっている安心感からなのか、満席の店内はPCにむかって集中している人、ノート取る勉強中の学生、文庫本に夢中の人などが多い。

 ドリップコーヒーのトールサイズを飲みきるまえに一気に読了する。元防衛省事務次官だった著者、守屋武昌氏は2007年11月、軍需専門商社・山田洋行から便宜供与を受けたとして収賄の容疑で東京地検特捜部に逮捕され、東京拘置所に収監された。

 本の冒頭、【2008年4月28日から東京地検で公判が始まり、判決は11月5日に下された。懲役2年6ヶ月、追徴金1250万円というその量刑は、2009年12月22日の東京高裁判決でも支持され、私の控訴は棄却された。現在は最高裁の判決を待つ身である。私は事件について、この場で釈明はしない。便宜を図ったことは誓ってないから、一審判決後には控訴し二審後も上告趣意書を提出したが、「自衛隊員倫理法」に鑑み、私は退職金を全額自主返納した。今はただ、国民や防衛省・自衛隊に多大な迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げたい。】とあった。

 当時、私もテレビや新聞の報道でこの事件を知っていたが、慢心した一防衛官僚が引き起こした不祥事としての捉え方という程度の軽い認識だった。が、この本に描かれた当時の普天間基地問題の二転三転した経緯の実態を、自らが記していた日記をもとにかっての大臣、交渉相手の沖縄などにたいして批判する姿勢に思わず共感を覚えてしまい、本に書かれていたわけではないが著者に着せられた収賄の容疑もはたしてどうだったのか、真偽のほどは闇のなかという気がしてくる。

 ブレのなかった小泉総理の一貫した態度、問題を長期化させる沖縄のしたたかさ、一部土建屋の利権構造、手玉に取られる政治家など実名で登場する現実感はヘタな推理小説をしのぐ面白さだ。あとがきに、【沖縄では基地があることで騒音や危険性などの被害を受けている人がいる一方、基地で生活している人たちもいる。島嶼県という地理的特性から経済的自立が難しく、基地経済に依存せざるを得ない人たちが少なからずいる。また振興策などで潤っている建設業者や経済人もいる。軍用地主には年間九百億円の借料が支払われているが、年間借料が三百五十万円以上の軍用地主は六千八百人である。

 また米軍基地での日本人労働者はおよそ九千人に上り、四百五十七億円が支払われている。沖縄県はこれに米軍人・軍属の消費支出七百億円を入れて、基地収入を二千五十六億円(2009年度)としているが、しかしこの中には防衛省が支払っている沖縄駐留の陸海空各自衛隊員八千人とその家族一万人が沖縄で使う生活費、部隊の糧食費、事業費、沖縄防衛局の基地対策経費、米軍の高熱水量は含まれていない上に、総務省の基地交付金六十七億円や本書で触れた内閣府の北部振興策を含む沖縄振興開発事業費も入っていない。

 これらを入れた私の試算では、基地があることで沖縄県に入る金額の合計は年間五千八百二十九億円に上る。これによって潤っている人もいれば、そうでない人もいる。特に基地周辺に住んで日々基地被害と向き合っている個人には結果として十四年もの間、負担を軽減するような施策は取られてこなかったという現実が、沖縄には横たわっている。】とあって、多元的な目で考えなければならない状況も理解できる。

 最後に付録のように書かれた著者の防衛論、「将来に向けての日本の防衛」もわかりやすく参考になる。おススメ。ちなみにアマゾンに掲載されている出版社からのコピーを以下に紹介。

 【小泉純一郎氏絶賛!「一気に読んだ。当時の記憶が昨日のようによみがえってきた。政治の現場がいかにオドロオドロしいものか。あまりにも生々しすぎる」

 「引き延ばし」「二枚舌」、不実なのは誰なのか?
 詳細な日記が炙り出す驚愕の舞台裏。永田町騒然! 「守屋さん、沖縄では大きな仕事は二十年かかるんですよ。石垣空港の時だって、年月がかかっても誰も困らなかった。今回はまだ七年です。たいしたことないじゃないですか」私は呆れるしかなかった。
 「それなら、沖縄の県民の前でそう言いなさい」そう沖縄首脳に伝えた。(本文より)

 民主党政権が見誤った基地問題の本質とは何か。四年にわたり事務方トップを務め、アメリカ、沖縄、永田町と対峙してきた著者が、日記をもとに今まで語られることのなかった全経緯を綴る。】


ニュー・シネマ・パラダイスをみた

 DVDの、「ニュー・シネマ・パラダシス」(3時間の完全オリジナル版)をTSUTAYAで借りてきた。初めて見る映画だったが、以前にも観たことがあったような気にさせる懐かしさに満ちた作品だ。きっと私が子どもだったころ父親の勤務する映画館に入りびたっていて、映画にでてくるフィルム映写機と同じものを見慣れていたからかもしれない。名前は忘れたがそのときの映写技師さんが用意してくれた踏み台からこの映画の主人公トトと同じように小さなのぞき穴で館内を見下ろしていたものだった。1989年イタリア・フランス合作のノスタルジックであたたかさを感じさせる内容で、監督はジュゼッペ・トルイナトーレ。

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 故郷をはなれ、都会にでてきて働いている映画好きの方だったら思わず共感する場面も多いと思う。作品のなかで上映される数本の映画もリアル・タイムで観ているので、興味が尽きない。途中何度かウルウルきたが、ついに切なくも美しいラストに泣けてしまった。おススメだ。

 映画館「PARADISO」で上映されたいくつかの作品。
「どん底」1936年フランス、監督:ジャン・ルノワール
「駅馬車」1939年アメリカ、監督:ジョン・フォード
「揺れる大地」1948年イタリア、監督:ルキノ・ヴィスコンティ
「ノック・アウト」1914年アメリカ、監督:チャールズ・エイバリー
「無法者の掟」1949年イタリア、監督:ピエトロ・ジェルミ
「にがい米」1948年イタリア、監督:ジュセッペ・デサンス
「ジキル博士とハイド氏」1941年アメリカ、監督:ヴィクター・フレミング
「ヴィッジュの消防士たち」(日本未公開)1949年イタリア、監督:マリオ・マットーリ
「アンナ」1951年イタリア、監督:アルベルト・ラットゥアーダ
「絆」(日本未公開)1950年イタリア、監督:ラファエロ・マタラッツオ
「素直な悪女」1959年フランス、監督:ロジェ・ヴァディム
「略奪された七人の花嫁」1954年アメリカ、監督:スタンリー・ドーネン
「青春群像」1953年イタリア、監督:フェデリコ・フェリーニ
「貧しいがハンサム」(日本未公開)1954年イタリア、監督:ディーノ・リージ
「ユリシーズ」1954年イタリア、監督:マリオ・カメリーニ
「さすらい」1957年イタリア、監督:ミケランジェロ・アントニオーニ

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